2010年10月29日金曜日

ニュースの見方が変わってきた

とどのつまり「ニュース」といえど『番組』のひとつであって、公平性や平等性など最初から担保されているものではないのだ。ということに遅まきながら気がついた。
だからこそ権力者に有利なようにミスリードする報道姿勢も、当たり前といえば当たり前だったのだ。むしろそうすることが「マスコミ」の『使命』なのだ。
そう思ってTVを眺めれば、そこかしらに垣間見える権力サイドや芸能人の勝ち負け報道が、相撲の星取り発表みたいで面白いな。
昨今は毎日のように『官僚幕府』側の勝利が続々と報じられていて、そのたびに我々『民衆』側の敗北が告げられているということなのだが、そのことにさえ気づかず「興味ねぇよ」と言っている程度の民度であれば、それはまあ、彼等の『奴隷』として、賃金貰って(4千年前から変わらないシステム)いいように使われて、権力者が遊んで旨いもの食えるのようにあくせく働くのも仕方ないよなー。と、TVはこういうことも教えてくれるからなかなかなものかも知れない。

2010年10月25日月曜日

民主党ってなんか昔の地頭みたいだな

中学でか高校でだったかは忘れたが、古典の授業で「泣く子と地頭には勝てない」という一文があった。
『地頭』というのは地方へ派遣される官僚のことだが、彼等はその地位を手に入れるために多額の賄賂をつぎ込む。そしてひとたび任命されるや、その元手を取り戻し、さらに何十倍もの利益を得るために、地方を苦しめ食い物にしている、ということを嘆いている文書である。
今で言うなら、一番儲かると言われている沖縄・北海道長官をはじめ、各地方長官や地方官僚がまさに現代版『地頭』であろう。
さらに選挙という首の挿げ替え制度により、本来癒着を断ち切れるはずだった代議士制度にも、一度代議士に成り上がってしまえば、官僚とがっつり手を組んでの搾取三昧な生活をおくる事ができるという道が、官僚幕府によって保証されるている。

その罠にまんまとハマってしまっているのが小沢氏亡き後の民主党の姿だ。

それでも代議士は官僚と違い、その生活が一生涯保証されているわけではない。
それなら次の選挙までに、吸えるだけ甘い汁を吸っておこうと、官僚以上に意地汚い動きになるのは当たり前のことであろう。まさに今の民主党がそれだ。
小沢氏は自身の余命を考え、いくらかでもそういったことを整理整頓しようと手をつけた瞬間、案の定抹殺されてしまった。政治生命を奪う、政治的暗殺である。
で、残った民主のてっぺんを見ると、ボンクラの官ナオちんやリンチ殺人者・戦国、頭がいいと思われたくてすぐ人に騙される真性馬鹿の真エハラに転びモノの丘駄などろくなもんじゃない。
そんな彼等でも、民主がこのまま政権を維持出来るなどとは毛頭思ってもないだろう。
そこで『地頭』作戦である。
今の地位にある間に出来るだけ可能な限り、儲けておかねばならない。
だったらこのさい、日本を中国・朝鮮・ロシアに切り売りしてでも、官僚幕府と手を組んで儲けるだけ儲けておかなきゃ損だとばかり、なりふり構わずの暴れようだ。

つまり1300年経ってもこの国は基本的に何も変わってないということだ。

2010年10月15日金曜日

実写版カイジ見てるけど

くっだらない映画…
原作やアニメ版にあったいさぎよさが無く、べちゃべちゃした気持ち悪い台詞回し
なんでこんな意気地のない映像つくったんだ?
こうしたほうが世間に受けるとでも思ったのか?
または世間に疎まれないとでも?
もし微塵でもそう思っていたのなら、この原作に手を出すべきではない。
まあ、あくまで商売でやってんだから、このほうが客が入ると判断したんだろうな。
くっだらね…

商売でやるんだから、たとえば近々「アバター」のDVDが発売される、それなら「めちゃイケ」とかに「アバター軍団」を出して、芸人を追っかけさせよう。
そうすれば忘れていた庶民たちにも、「アバター」って映画をまた思い出させることもできるし、DVDの宣伝にもなる。
これくらいあざとくやるのが「商売」というものだ。

『映画』を創りたいなら、例えば高層ビルの1本橋から墜落した人間の、頭が地面に激突してグシャッと潰れた瞬間に、ビーフシチューの肉をクローズアップで口に頬張る紳士の絵を入れるとか。直截に人間を喰って楽しむ紳士たちといったメタファーを挿入するべきだ。

20世紀ならいざ知らず、21世紀に映画を作ろうと思うなら、やることやってくれなくちゃな。

2010年9月20日月曜日

勝ち馬に乗るには?

どんなに清廉で博識でりっぱな人格者であっても、カネを持たない男は「うんこ」以下である…という考えかたがある。言わずと知れた商人の理屈である。逆を言えばどんなに卑怯で卑劣であれ、カネさえあれば『りっぱな人』なのだ。

物理的兵器(剣・銃・ミサイルなど)での争いのない世界では、兵士(武士など)は不要となり、商人の時代となる。(文人・知識人は『負け組』なので『商人の世界』では人間以下=「うんこ」にカウントされる)
その商人の武器といえば、カネと情報操作である。
廉恥心や遠慮、情け心や人のために良かれと思う行動を選択することは、商人の時代にあっては「負け組」となることを意味する。

商人の理屈では「清貧」は「悪」であり、自らに害を及ぼさないいかなる手段も「正義」となる。

そこで今の時代「勝ち組」になるにはどうしたらいいか?
商才(他人を犠牲にしてのし上がる根性)がないものは、勝ち組に乗るのが一番である。

『驥尾に付す』(きびにふす)という言葉がある。
驥(き)とは麒麟(きりん)という幻獣の雄を意味する(麟は牝)。その麒麟の尾に付いてウマイ汁を吸うダニのことである。
つまり商才を持った人間にゴマをすり、くっついている(麒麟のしっぽにしがみついている)だけで、黙っていても勝ち組の仲間入りが出来るという意味だ。

では、現在の『勝ち組』は誰か?
もちろん、官僚とマスコミである。
官僚は『税金』というカネを自由に操れる存在であり、マスコミは『情報』をいくらでも自由に操作出来る存在であるからだ。
彼等『官僚とマスコミ』は国家がどうなろうと民衆がどうなろうと知った事ではない。
自分だけが幸せでありさえすれば、あとはどうでもいいのだ。

ならば話しは簡単である。
官僚になるかマスコミ人になればよい。
だが、それには幾許かの努力と運がいる。
それが出来ない、持てない一般人はどうすればよいか?
そこで『驥尾に付す』のである。
官僚やマスコミに逆らわず、奴らの前でペコペコ頭を下げるだけでよいのだ。
もっとも簡単なのは『お笑い芸人』になることだろう。
これなら勉強も努力もいらない。
ひたすらゴマをすり、頭をさげていればよいのだ。どちらもタダである。これほど元手いらずで楽なことはない。
あとは失言して嫌われないように、奴らのコンプレックスを刺激しないように気をつけていればよい。
スタートは知己を得るための『運』も少しは必要だが、一度つかんだら失敗さえしなければ、あとは一生安楽な生活が待っている。
食べ物だの便利な発明だのは『負け組』の連中が勝手に作ってくれるから大丈夫。
つらいことや頭を使うことは彼等に任せて、自分たちは享楽的に面白おかしく暮らせばよい。
『「生きる」とは「人生を楽しむ」ことである』

だから『勝ち組』になりたい皆さんは、周りをよく見回して『麒(麟)』な人を探すことだ。
気をつけなければいけないのは、本物の『麒麟』は幻獣と同じく滅多に存在しないということである。

2010年9月15日水曜日

今回の民主党代表戦はマスコミの勝利

民主党代表者投票は官(僚)総理で決定した

結果は結果である
小沢氏は負けたということだ

今回の戦いは小沢氏の戦術がもはや有効ではなくなっていることを露呈した戦いであった
マスコミ総動員(一部、日刊ゲンダイ・週間朝日を除く)の一大洗脳作戦の前には、もはや各個撃破戦術は効をなさないということなのだろう
そしてまだまだ地上波をメインとした5大ネットワークは強大な力を持ってい、一部活字メディアやインターネットは、その力にはまだ及ばなかったということである

だが、マスコミを総動員しての洗脳戦術も、今後はインターネットが(スマートフォンなどの普及で)人口に膾炙するに従い有効ではなくなる時代がもうすぐそこに来ていることに、権力サイドはとっくに気がついているに違いない
隣国中国はいち早く検閲強化や自由なネット活動の妨害・摘発・逮捕・殺人を行っている。
日本もいずれそうなるだろう

今の状況は一見、昭和初期の戦争突入期における大政翼賛会的なものと同じであるように見える
だが、情報の受け手は21世紀の日本に住む新人種、かつての日本人とは違う精神を持つものたちである。戦後アメリカ指導による洗脳教育を受けたネット右翼と称される左翼的人種なのだ
彼等は古典を学ばない。(古代からの東洋的)権威を認めない。

学生病という言葉がある
大学に合格した学生たちが「我こそは世界でもっとも優秀な選ばれし新人類である」という妄想を持つ病気である。
大学の優劣は問わない
「合格した」という事実が、彼等をそのようなパラノイアへと変貌させるのだ

今の大衆は多かれ少なかれ、その病気からいまだに回復していない患者に見える
つまり「大人」を受け持つための(精神)OSへの書き換えが未完全なものたちが異常に多く存在するように感じるのだ

「大人」という職業は漫然と得られるものではない
それなりの修養が必要不可欠である
その中には情報を自ら得てこそ自らのものにでき得るという運動原理も含まれる
与えられた(リークされた)情報には、必ずそれをもたらした者を利するもの(ブービートラップ)が仕掛けられている
ゆえに、特にニュースについては、先ず疑うところからはじめなければならない
このニュースを流布させることは誰を利することになるかをだ

そういう意味で古典は別物であることは容易に想像できるだろう
年月と幾多の人々のふるい分けを生き抜いてきたものだけが「古典」と名乗ることを許されてきた経緯があるからだ
ただ古いだけではない。誰もが一度は耳にしたことのある存在、それが「古典」である
それら「古典」の中には必ず人類にとって有益な情報が存在する
「真理」と読んでも「正義」と読んでも自由だが、有益であるからこそ生き延びてこれたのだ
もちろん為政者にとって「古典」ほどやっかいなものはない
ハッキリ言って「知られたくない」情報が満載だからだ
為政者=権力者にとって望むべき大衆の姿とは、富を簒奪・搾取されているにもかかわらず、それを知らずにいくらでも貢いでくれる存在であるからだ
そのような存在に「真理」など必要ない、と考えているからだ

しかし、まったく「古典」のない世界ではアメリカのスラム街のように無法地帯化してしまう
その現象は権力者たちへも生命の危機をもたらす
暴動や革命などが己に起こってもらっては困るのだ
だからこそ数%の「真実」や「正義」を小出しにしながら、どのように誘導すればよいかを考える
その施策を考えるには、優秀な頭脳と臆病なほどの用心深さと卑怯で卑劣な精神が必要だ
それらの条件を満たす存在が「官僚組織」である
これは古代から変わらない「真理」である

本来そのような権力者を監視・告発するのがジャーナリズムの役割であるが、今の5大ネットワークは既にその役割を放棄しているようだ

2010年9月11日土曜日

三権分立はもはや形骸化した

村木氏の無罪判決の意味するものとはなにか?

マスコミが報道しているということは、現在我が国を支配しているある組織にとっては望むべき運動であるということだ。
その真意が確かめられるのは、さらにあと10年かかるかも知れない。

だが、今回の一連の動き…小沢氏のみをあげつらうことで煙幕を張る「政治とカネ」報道、小沢氏の国政をサポートする人間たちの芋づる式逮捕・判決(冤罪)、村木氏の無罪判決、押尾学殺人犯の執拗な報道…これらは全て無関係ではない。

判ったことは、もはやこの国の「三権分立システムが崩壊している」という事実である。
三権分立は各々が他者をチェックし合うことで、互いに拮抗した権力を持ち、その権力を侵されないという理論である。
しかるに現在、互いにチェックし不正を暴き権力の暴走を抑えるどころか、お互いに手を結び己等が作り上げた不正な集金システムを隠蔽し永続させるためのカルテルを結び、国民の目から隠すために報道や警察力を使ってジャーナリストを封殺している。

三権とは三つの権力(行政・司法・立法)のことだが、それらを束ねる上位に存在しているのが、巨大な官僚機構=官僚幕府の存在である。

総理大臣よりも天皇陛下よりも、実質この日本国を支配しているのは彼等、官僚マフィアたちである。

現在行われている権力闘争は、これら官僚マフィアが張り巡らしたシノギのシステムを、政治家の手にしようという運動である。
国民にとってどちらがマシか…もちろん選挙によって選択権が与えられている以上、死んでも利権にじゃぶじゃぶな官僚マフィアより、選挙ごとに首を挿げ替えることが出来る政治家のほうがよほどマシである。

2010年9月8日水曜日

今、この国が恐ろしい

民主党の政策に「国家主権の移譲」という、独立国家であることを放棄する一文がある以上、同党を指示することは出来ない。

だが、しかし、現在我が国が置かれてる状況を冷静に俯瞰してみると、理想論など屁のツッパリにもならないことがよくわかる。

そこで小沢一郎総理である。

こんな時にこそ、勝海舟のような人物が切実に必要なのだ。
小沢一郎が勝海舟に比肩しうるとまでは言わないが、小沢氏が掲げていることが、もし実現出来るとすれば、それはまさに幕府(の創り上げた集金システム)を壊し、新しいシステム=維新を構築することを意味する。
http://www.ozawa-ichiro.jp/elections/pdf/ozawa33seiken_ryakureki.pdf

今やこの国は戦争状態であることを、どれほどの国民が認識出来ているだろうか?
朝鮮半島は言うに及ばず、中国・アメリカ・ロシアなどから、国家主権を日本国民衆から奪うための戦いが、日夜繰り広げられている。

マスコミはまったく信用ならない。
ジャーナリズムは封殺され続けている。
今や司法も信用ならない。
警察力(検察含め)が権力側の守り手であることはいつの時代にも変わらない真実である。
しかるに、司法までが今や権力の守り手になってしまった。
もはや一般人である民衆には、守り手は誰もいないのだ。
己の身は己で守るアメリカのように。

「夜も安心して寝ていられるのは、誰かが守ってくれているからだ」と言ったのはショウペンハウエルだが、今や誰も守ってくれない時代に突入しようとしている。

幕末の「おかげ参り」のように、世間ではお笑い芸人が益体もないくだらない害毒を撒き散らすばかりで、本来「狂気」の持つ反骨=反権力の精神は失われ、AKB48などといった、マーケティングアイドルを使い捨て・猿回しする興行主=一部の旨い飴玉をしゃぶる悪魔に踊らされているばかりだ。

「無ければ作ればいい」とする東洋的知恵は失われ、「無ければ奪えばいい」とする新自由主義=グローバリズムという盗賊の論理がまかり通る時代。

グローバリズムの正体は『Pan-American』(汎アメリカ主義)、つまり「世界中をアメリカ的文化一色にしてしまおう」「アメリカ的思想以外は認めない」という、一種のファシズムである。
戦前教育を受けた人物がいた時代は、洋才和魂の考えで騙し騙し外交(戦争の一種)を行って抵抗を続けてこれた日本だが、経済指導者や政治家達が高齢化し、気骨ある日本人がどんどん居なくなりつつある今、今こそ好機と各国が日本で得られる利権(植民地化)を求めて交戦状態にある。

鈴木宗男氏は幾多の指摘のある通り、なるほどロシアンマフィアとのつながりもあっただろう。
しかし、かつて勝海舟が「を」組の大親分、辰五郎と親交があったことを見ても判るように、現実の政治を行うには必要な処置だったのかも知れない。
そのことで幾許かの利益を得るのは必要悪である。
人間である以上、霞を食って生きていけるものではない。欲望こそがバイタリティ=生命力そのものであり、それを失ってしまった人間は聖(ひじり)として隠棲するしかないだろう。
もちろん行き過ぎた欲望には反動として排斥運動が起きるのも当然である。
そのための「法」であり「社会(の仕組み)」である。

だが、現状の日本はどうか?
警察力も司法も報道も、全てが現権力者の走狗に成り果ててしまっている現在は?

この国がアメリカのようになることを、洗脳されたにせよ結果的に国民が選択したのであれば、それが「時代」というものなのだろう。
アメリカのようになる…それは「我が身を守るのは己だけ」という社会(の仕組み)である。
もはや「刀狩り」を行っていい時代ではないということだ。
民衆は個々に武器を携帯しなければ、己も家族も守れない、そういう時代・社会になるということだ。
これを見越してか、数年前から警察力はナイフ所持さえ禁止してきた経緯がある。

さあ、西部劇・時代劇の時代がやってきた。
これからはナイフ・剣・刀・拳銃などを、皆が持つ持たねばならない時代がやってくるのだ。

これから日本がどう変化していくのか…21世紀の戦争の仕方(マスコミによる洗脳戦)がどのような結果をもたらすのか。

5年後にこの文を読みなおす時が、無事訪れることを祈って筆をおく。



http://www.the-journal.jp/contents/futami/2010/09/post_25.html
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1008/30/news011.html
http://www.dpj.or.jp/news/?num=602

2010年7月12日月曜日

民主大敗

今回の選挙はまあ痛み分けというところだろうか。
「国家主権の移譲」などという世迷言を平気で言ってのける民主党が大敗したことはいいことだが、そのせいで自民が勢いづくのはまた嫌な問題だ。
どうせなら社民や共産党といった、常に世の中に対して文句を言う立場の党が増えて欲しかった。
そういった党もまた必要なのだ。
でなければ本当に政治というものが単なるお飾りで、財界や金満家のみに尻尾を振る大政翼賛会になってしまうからだ。

もはやマスコミは信用するに足りない存在であることに、今回の選挙を通じて少しでも皆が気づいてくれることを望むばかりだ。

真実は己の手で探し当てるしかない。巣にいる雛のように口を開けていれば与えてくれるニュースというものは、すべて操作された恣意的プロパガンダである。
せっかくのネット世界を有効活用しない手はないではないか。

「みんなの党」が躍進したこと自体は、その政策を見る限り歓迎されるべきことだろう。
だが江田憲司だけは落選して欲しかった。
彼は「表現の自由」規制派の急先鋒であるからだ。
名目はどうであれ、彼の目論む法案が通過した場合、真っ先に取り締まられるのがネットでの個人発言であることは火を見るより明らかだ。

彼の考えていることは現代の「刀狩り」である。
ネットにおける自由な表現や発言を徹底的に取り締まることにある。
もちろん自分(達)にとって都合の悪い事実や発言をである。

「冤罪が生まれても取り締まるべきである」などど平気で口に出来る男である。
その言ひとつ取ってみても、彼がネオ・ファシズムの思想の持ち主であることは間違いない。
そんな男が所属する党が今回は大躍進したと言われているのだ。
これは民主や自民などの益体も無い政策など、風に飛ぶような小さなことにするほどの大問題であるのだ。

まして江田憲司はいい意味でも悪い意味でも「政治家」らしい「政治家」である。
つまり「たらし」であるということだ。

こんな男の口車に乗ったら最後ということが判るのは、残念ながら多くはいないだろう。
大衆とはそういうものだ。

「みんなの党」自体の政策は天下り禁止や公務員削減など大方は賛成できるものであるが、児童ポルノ規制法という名前だけは人様から後ろ指を指されないようカモフラージュされているスパイ防止法まがいの法律だけは、絶対に実現させてはならない。
「単純所持」だけで逮捕出来る法律なぞまかり通ろうものなら、それこそ少年ジャンプを持っているだけで逮捕されかねないのだ。

皆もっとこの法について真剣に考える必要がある。
本当の狙いは、我々大衆による自由闊達な意見の発表を封じ込めることにある。
まるでかつての「赤狩り」のようにである。

このままだと現代に北一輝が蘇り、再び2・26事件を起しかねない状態にあるということを、マスコミも含めもっと真剣に考えるべきである。
いかに温厚な日本国民と言えど、これまでどおりに「勝ち組」などと嘯く悪が大手をふって高笑いをしている世の中では、そのうちはじまるであろう「おかげ参り」を留めることは不可能になるだろう。
それほどのことでもないと世の中は変わらないのかもしれないが…

2010年7月9日金曜日

こんな夢を見たw

どんな夢かというと、民主党政権が倒れた後、自民を中心に旗揚げされた大連立による大政翼賛会の活動で、日本が戦争景気に湧きに湧くというものだ。

今の閉塞状況を打破するための起死回生の策は戦争以外にない。とする一部の財閥と宗教団体の働きにより、小規模紛争を拡大化し、その後方支援を受け持った我日本国は武器・弾薬・医療・娯楽などあらゆる点をバックアップ。その戦争特需で企業はウハウハ。国民も景気が回復してウハウハ。政治家も政治に興味を失くした国民の影で私欲を満たしてウッハウハ。何故か一番儲けているのが半島系企業というのは内緒だw
と、いう夢を見た。

現在、食料のABC包囲網でじわじわと締め付けられている日本人はこの状況を大喜び。
くじらもマグロも金の力でたらふく食べられ、TV局も毎日報道出来るネタがいっぱいで大喜び。
お笑い芸人がますます増え、世間の風もネタという名の法螺吹きばかりがもてはやされる軽佻浮薄な輩ばかりになって、難しいことを言う人間も減って、コンプレックスを刺激されないのでいいことづくめ。
と、いう夢を見た。

朝日も現在は半島人がトップになり、かつての朝日ジャーナルよ今何処の風潮だが、腹が満たされれば金持ち喧嘩せずの理屈で丸く収まり、財界読売はもちろん読売のおこぼれを与る毎日も余禄が増えて大喜び。
と、いう夢を見た。

沖縄には予定通り公営カジノが出来、アメちゃんの落とす金で大儲け!笑いがとまらない富豪がバンバン誕生し、いまや小倉や広島を凌駕して暴力な団の皆さんは大挙して沖縄で風切って歩いてウッハウハ。
と、いう夢を見た。

まあみんな夢のお話し
夢のまた夢。夢の中の夢。

と、これは一ヶ月前に見た夢のお話し

さて、もうすぐ選挙。
だが民主党には絶対に投票しない。
「国家主権の移譲」などという自ら独立国であることを放棄するような文言を載せているような売国奴に誰が投票などするものか。

http://www.dpj.or.jp/news/?num=602

それにつけても、戦争は嫌だな…

2010年6月28日月曜日

神の国

黄色人種はものをつくり、黒人は働き、白人はそれらを消費して我が世の春を楽しむ。
これが彼ら選ばれた民(エリート=白人)たちの考えるゴッドランドである。

その完全なる実現のため少しでも有色人種にとって有利に働くと思われた場合、ただちにそのルールやシステムは白人に有利になるように是正されねばならない。
商取引もスポーツも通信も流通に関わるあらゆる事柄も全ては白人第一主義に徹しなければならない。
本来努力などというものは有色人種に任せておけばよいのだが、ことこれらのルール策定においては手間を惜しんではならない。
そのための実力行使手段として最大の軍事力は常に白人側が握っていなければならない。
少しでも脅威に感じた場合は直ちに武力制圧すべきである。
そのための大義名分は後付で構わない。スピードをもって対処すべき時に躊躇してはならない。
それがゴッドランド=地球に住む白人の使命である。
詭弁は多いに利用すべきである。廉恥心は体面上必要と思われた場合にのみ表面だけに留め、本来は持つべきではない。
所有権・財産権はすべて白人の手にあることを徹底させよ。
有色人種の成果はすべて取り上げよ。
ピラミッドの頂点には必ず白人が居ることを周知させよ。疑問を抱かせてはならない。
白人の手からのみ餌を与えられることでしか生存出来ないように、有色人種を飼い馴らせ。
有色人種の管理・統治は有色人種にさせよ。
バルバロイはバルバロイの手に任せるべきである。
しかし手綱はけして離すな。
逆らうものには死を!
世界は白人の統治によってのみ平和が保たれていると知らしめよ。
それが神の国、ゴッドランドである。

2010年5月10日月曜日

基地問題は…外務省が悪い

風が吹けば桶屋が儲かるではないが、今回の基地問題は外務省のお役人の怠慢によるものである。

暴論を言ってしまえば、何故今北朝鮮に働きかけて徳之島に攻撃をかけさせないのか?
中国に働きかけて10隻程度の軍艦を通過させるだけでは、国民の目は覚めないのだ。
ここは黒船よろしく徳之島や鹿児島沖で発砲させるくらいまで頑張らなきゃ駄目だ。
この国が独自の軍隊(防衛力)を持たない、勝手取り放題の国であるならば、いつでも誰でも攻めて来ることが出来る。
アメリカ軍基地はいわば必要最低限の防衛(抑止)手段であることは、火を見るより明白であろう。
現実問題として、アメリカ軍基地を無くすなら、代わりに国軍を組織して防衛の任に当たらせねばならない。
結果基地はアメリカ軍から日本軍へと移管するだけで、基地は無くなりはしないのだ。
だったら東京に作ればいいではないか。という意見もあるだろう。残念ながら地政学的に見て、それは無理がある。
事実、厚木や座間など現在でも基地は存在するが、緊急展開の必要性から規模は縮小されてきた経緯がある。

かつてロシアが対馬を占領しようとした時に、武力による奪還を見事に果たした勝海舟の例を引くまでもなく、理不尽な武力には武力で対抗しない限り国土を守る術はない。
事実竹島は韓国軍に占領されてしまっている。
これを話し合いだけで片付けようとするなんて甘すぎるにも程がある。要は戦争は経済問題であるから、竹島から韓国軍に出て行ってもらうためには毎年貢物を韓国に送り続ける必要があるだろう。

マスコミもこれ以上面白がって煽り続けたら、将来的に禍根を残すことをもっと真剣に考えるべき。どうやらここ何日かで少しばかり反省はしてきているような報道姿勢も見受けられるようになったが、同じ日本国国民としてもっともっと真剣に考えて報道して欲しいものだ。

2010年5月3日月曜日

自由について考えてみた

人は基本的に「自由」である。

何を考えようが、何をしようが一切が「自由」である。

例えば殺したいほど憎いやつがいて、その人間を殺したとしよう。人を殺すことは「自由」である。だが、そんな人間が自分の隣に存在されては困るので、当然人を殺した人間は罰せられる。これが「責任」である。

人は何をしても「自由」だが、己が行った運動に対しては当然「責任」を伴なう。

もっと卑近な例をあげると、「嘘」を行うのも自由である。誰を騙そうが誰を欺こうが誰を裏切ろうが、その人の自由である。だが当然騙した「責任」欺いた「責任」裏切った「責任」が付いてくる。その「責任」を人は果たさなければならない。「社会」に存在するということはそういう意味である。

故に「自由」とは「自らが由し(最善と納得)」とした運動である以上、結果何が起ころうと「己」で「責任」を取らねばならない。

別の言い方をすれば、その「責任」を取る覚悟さえあれば、何を他人に言及・指摘されようと、その意見を無視するのも受け入れるのも自由である。

他人の忠告を無視した結果、悲惨な目にあったり重大な過失を犯すのも「自由」である。一方、忠告を受け入れ成功するも大金を手に入れるも「自由」である。その「成功」も「富」も「責任」である。何故なら「成功」も「富」も他人の「妬み」を受けるという「責任」を果たさなければいけないものだからだ。

そう考える時、現在の己の状況を他人のせいにすることの愚かさが見えてくる。「上役が悪い」「会社が悪い」「政治が社会が悪い」そう思うなら、その対象に「責任」を取らせれば良いのだ。「責任」を取らせるべく運動を行えば良い。その運動を行うことは「自由」である。

その結果会社を解雇されたり、社会から認知されなくなったり、冤罪で逮捕されるのも「自由」であり「責任」である。

多くはそのような「運動」を行うことのリスクを天秤にかけて実行することなく平穏無事に生きることを選ぶだろう。それもまた「自由」である。だが、その選択には「悪」に屈したという「責任」が伴なうことも理解していなければいけない。

2010年4月19日月曜日

三国志と重ねてみる

今の政治を三国志で表したらどうなるだろう?と考えてみた

・魏 自民
・蜀 民主
・呉 第三極

こう考えると最後に天下を取るのはやっぱり自民ということになる。

民主を蜀に宛がうと、劉備は鳩山首相、関羽は小沢さんだろうか…張飛が居ないなぁ…あ、諸葛孔明も居ないや

呉はこれから起こるいろいろな新党だろうなー
勢いはありそう

自民だと曹操に比せる人物が誰もいない…
司馬懿は居る。舛添氏がまさにそれ。最後は裏切って隋を起こす…
そうか、そう考えると最後に笑うのは次の唐(党)を立ち上げる人間だ!

おそまつ

2010年4月17日土曜日

鳩山さん、首相は首相らしく

アイヌ・ネノアン・アイヌ(アイヌはアイヌらしく)

「アイヌ」と言うのはアイヌ語で「人」という意味であるそうだ。
つまり「人として恥ずかしくない生き方をせよ」という意味だろう。
その言葉には強烈な自省を促す教えがある。

しかし鳩山首相…(普天間問題は)「マスコミが騒ぎすぎ」(だから問題になった)というのは、国のリーダーとして恥ずかしい言だと何故気付かないのか?
もちろん本意は違うだろう「マスコミによる情報操作」を危惧しての言なのかも知れない。が、マスコミが真意を斟酌したり、真実を伝えるわけがないではないか。
逆に言葉尻を捕まえられて、恣意的操作に用いられるだけであることに、何故気付けなかったのか…

一度でも外在化すればそれはもう無かったことには出来ない。ゆえに仏教で言う末法思想のように、悪事は一度行われれば二度と無くならない、さらに上回る悪事が重なって行くのみである。そして世は悪が蔓延る末世へと進んで行く。
政治家の言も同じである。一度口にして世に出た言は、二度と取り消すことは出来ない。
だからこそ政治家とは「言を統治する者」でなければいけない。
これはギリシアのキケロの時代から何も代わることの無い真理である。

人は欲望・恐怖などで動く生物ではあるが、最も影響を受けるのはエモーションによってであると思う。その感情を動かすエネルギーは「感動」するということだと思う。
そして言の葉によって「感動」をコントロール出来得る人間こそが真に政治を司る者であろう。
人は獣と違い、肉体的恐怖以上に心の強さが生き様を決定する生物であるから、
その心をコントロール出来る人は当然人の尊敬に値する。
逆にそのコントロールが出来ない人間は軽蔑されるだろう。

然るに「マスコミ」が事実に即してないから…というのは我々庶民レベルで口にすることはあっても、一国のリーダーたるべき総理大臣が口にして良い言葉ではない。
元来「マスコミ」とは「野次馬」の謂いであり、そこに誠実を求めてはいけない。
うつろう存在こそが「マスコミ」という幽霊の正体であるからだ。

その「まぼろし」に向かって文句を言うのは自由だが、公人である自覚も忘れないで欲しい。

2010年4月5日月曜日

残苦労、無念

残九郎の最終回は実に惨いものだった…

安定しない画面、落ち着きのないカメラワーク、奇を衒っただけの意味のないカットバック編集、音声バランスの調整をミスしているせいで鼓膜が破れそうなほど無駄にデカい音がしたかと思えば、台詞(の音量)が小さすぎてよく聞き取れなかったりしている。いつもの洒脱な演技や演出はなく、ただ嫌味に緊張を強いるような演技バランスの悪さ、客を楽しませようとする視点も演出もどこにもなく、ただただ己の自己満足のためだけに制作されたかのような酷い出来だった。
いわゆる厨2病の監督(素人)が作るとこうなるのであろうかという、いいお手本のようだ。
カメラマンがキッチリいつも道りの職人仕事をしている分、余計フィルムの痛さが増している。
いくら最終回だからって、これはないんじゃないかな…
今までの不満を晴らすための現場の反乱(プロはそういうことはしないが)か?とさえ疑ってしまうような出来栄えだ。
どうしたのだろう?いったいなにが起こっていたのだろう?
謎を残したまま尻切れトンボで終わっていくフィルムを見て愕然としたのであった…

2010年4月4日日曜日

memo

ピタゴラス派の戒律

まず不滅の神に対して汝の勤めを果たすべし
 親御と近親者を敬い 徳において第一の者を友となし 彼の話に注意深く耳を傾けるべし
 ささいな欠点で友を力に任せて捨てるな
 怒り、怠惰、贅沢は避けよ 邪悪なものを慎め しかし己を最も恐れるべし
 肝に命じよ、人は皆死ぬべく定められている 富はそれを得た時と同じように速やかに失われる
 十字架(苦しみのこと)は神の思し召しによってもたらされるので (汝の運命がそうなっているならば)喜んで受けよ
 だが、一切の気苦労を除くように努め
 正しい者が(いつも)最高の利益を得るとは限らないことを思え 人の甘い言葉に惑わされるな
 荒々しい脅迫に恐れをなして正しい覚悟を捨てるな
 もし何かをしようとするなら、まずよく考えよ 後で悔やむようなことをしてはならぬ
 まず自分に向いている事を学ぶようにせよ
 運動と食事に節制を心掛け 平静な落ち着きの中に己を保つべし
 虚栄心がもたらす浪費を戒め 浅ましくなってもいけない。何事も中庸が最善である
 例の日記を3回繰り返すまでは 夜、目を閉じて休んではならない。
 (すなわち) どんな過ちを犯したか、何をしたか、何をしていないか
 このように初めから終わりまで総括を行い 悪行のためには悲しみ、善行を喜べ
 恐れることはない、人はもともと天上の種族である
 神聖な自然により何を抱擁すべきかを教えられ、それを追求すれば 魂を肉体の汚れから守ることになる
 控えよ。理性を用いて心のたずなを引け そうすれば天上へと昇り、肉体からは自由になる
 そなたは死を免れた聖人であり、もはや滅びることはない

2010年4月3日土曜日

’不道徳な世界で道徳者は規律を守れるか?’

タイトルは
TV劇アップライジングでの台詞のひとつだ

‘恐れは人を卑怯にする‘
アニメ「ペルセポリス」の台詞のひとつだ

貧乏で生活が苦しく何も食べるものがない状況に陥った時、人はどのような行動を取るのであろうか?どのような行動を取るべきか?生きるために?何に対して?矜持を失ってまで生きる価値が生にはあるのか?

こういったテーマそのものが文字禍であると考えるなら、その人にとっては無駄な問いである。生に執着することが生そのものの本質であるとするならば、人がヒトという名の獣に戻った時、生きるためなら己以外の生物を殺し奪ってでも生き延びようとするだろう。
それが正義であるならば社会は何のためにあるのか?人の世のルールは?政治は?そして道徳とは?

道徳を守らないものが人に何を説いても説得力など微塵もない。
どんな権力や権威を持っていようとだ。

’不道徳な世界で道徳者は規律を守れるか?’

このテーゼは古くて答えの無い質問である。

2010年3月29日月曜日

ちょっと想像してみた

人の生涯賃金は3億円ということらしいが、まあ大雑把に考えて働ける期間は20~60歳までの40年間として…3億を40年で割ると平均年収は750万になる。で大方の人は定年に近くなるほど年収はアップするだろうから、20~30までは年収500万、30~40までは700万、40~50までが800万、50~60が1000万みたいな計算になる。
で、そんなに貰えている人間が一体どれだけいるかと考えてみると…
どうも8割くらいの人はそんなに貰えてないのではないだろうか?
だとしたら残りの2割の人たちが非常に高額な金銭を貰っているということになる。
その人たちはそんなに貰えるほど働いているのだろうか?世の中に貢献しているのであろうか?
どうもそんなことはなさそうだ。
だったら何故そんなに高額を得ることができるのであろう?
答えは単純である。そのように高額を得る仕組みを持っているからである。
その仕組みはなんでもいい、結果的に高額を得ているという事実があるだけである。
その仕組み=ルールを知っていて、それをうまく利用できるものだけが高額所得者になれるのである。

ディレイニーの小説に「時は準宝石の螺旋のように」というのがある。
主人公は最初は貧乏なコソ泥である。それが最後にはセレブの仲間入りを果たし、自分達セレブの生活維持のためのルール作りに加担するようになるまでの立身出世物語である。
いかにも資本主義の本質を描いた名作であるが、では皆がその物語の主人公のように行動できるのかというと、とてもとても小心で善良な一般人にはマネなど出来ようはずもないない。
(一時期「勝ち組になるための10の法則」みたいな指南書が多く出回っていたが、そこに述べてあることを実践すれば出来るようになるかもしれない)
結局は悪事を行う=自らの手を汚すだけの度胸も器量もない善良な人々は、いつまでも貧乏で食い物にされるだけなのだ。ということなのであろう。

ダムだの郵政だの道路だの株だの証券だの、世の中にはいろいろな旨い仕組みや合法的な詐欺が存在するわけだが、金持ちになりたい人はそういったルールを上手に利用するのが良い。
TVに出ている司会者やコメンテーターは皆、それらのルールに則った世界に住む我々庶民とは一線を画する存在である。
いわゆる別世界の住人たちである。
ゆえに当然彼らが言っていることや行う運動は、彼らの世界を擁護するものであって、我々庶民がどうなるかなどまったく眼中にないと思ったほうが間違いがない。

今日もTVのニュースバラエティを見ながら、なんとなくそんなことを想像してみるのであった。
俺ももっとスルーする力を身に付けて、なにも考えないようにしなくちゃなー
そうしないと幸福にはなれない気がする。

2010年3月23日火曜日

斬九郎の面白さについて考えてみる

まず心地よい緊張感
役者(※)しか出ない現場の真摯な姿勢
キャスティングの妙
練りこまれたシナリオ
打算のない絵作り
プロ魂
後味の良さ
大人のファンタジー
時代劇の意味

※滑舌の悪い2世や芝居が出来ないお笑い芸人を排除した

2010年3月18日木曜日

こんな日本に誰がした?

もちろん答えは自民党である。

まあ、もとから地上波はニュースを見ることがメインで、たまにバラエティや情報番組を見る程度なのだが。
それにつけても最近のニュースはアナウンサーやコメンテーターなどが、皆解説者気取りで誰に吹き込まれたのか、先をまったく見ていないかのような国民生活をないがしろにしたブルジョワジー的なことしかしゃべらないので、聞いていてイライラする。
考えてみれば、すでにTVに出ているという時点で彼らは特殊な存在である。高給を貰い将来も保証され、バブルが弾けようが信用取引(合法的詐欺)による金融不安を引き起こそうが、つまりは庶民ではない彼らにはなんら関係のない、勝ち組に属する一党であるということだ。
ならばブルジョワジー擁護・庶民生活からの乖離の発言を為すのは至極当然のことなのだろう。

しかし心ある人間ならば、裏でいくら王侯貴族のような贅沢な生活を謳歌していようが、表には微塵も表さないものだ。自分が金持ちであるとか、人より優れていることをひけらかす行為は品性下劣な証であるからである。一昔前の医者などは、どれだけ稼いでいようがあえて車はカローラを選んだものである。

それが今ではどうだ…まるで教育を受けていない成金アメリカ人かと見まごうほどの堕落ぶりである。
だいたいが「勝ち組」などという下品な言葉を使うようになったことからもわかるように、今の日本人(TVに映っているだけの限られたものたちだけではあるが…)は、あきらかに文化的に不自由なものたちである。
もっとも縁故採用ばかりで、ちゃんとした教育を受けていない連中が牛耳っているようなマスコミ番組に、品性や理性・論理的であることを望む方が間違っているのかもしれない…

もはや古きよき日本は失われてしまったということなのだろう。
「国体(’日本人’を形成するナショナルアイデンティティ)」の破滅である。
(戦争に負けるということはこういうことか…)

十・廿・世、アラビア数字で表記すると10・20・30であるが、つまり30年で代替わりするというのが「世」「世代」であり「世間」であるとする考え方である。
人は20歳で人に成り=成人=人間の仲間入りをし、社会の中で30年間活躍した後、50歳で一区切りをつける。下天(人間界のひとつ上方に存在する世界=仏教用語)にいう、たった一日(我々の世界では50年)のうちの社会活動に宛てられる運動期間がつまりは「世」ということだ。
これらは皆、昔の人の優れた感性によるいわば市井の哲学のようなもので、現代では通用し難いものなのだろう。
平均寿命は延び、働かなくても食べていける環境を生み出した現代文明社会においては、20歳で成人などにはなれない世の中になってしまっている。せいぜい30~40でやっと成人になれるかどうかという民度レベルであろう。
だが、30年を一区切りとする考え方は現代でも通用しそうだ。流行を観察して漠然とそう思うときがある。

2010年3月9日火曜日

ニュースが怖い

核持込みに関する密約報道で、当時の自民党を擁護し今の民主党を非難するかのようなニュースキャスターの口調を聞いていて、そら恐ろしくなった
今、TVはどこに向かおうとしているのだろう?

朝も昼も夕方も、相も変わらず民主党を必要以上に攻撃し続ける報道ばかりだ…
こんなものを毎日・毎晩見せ続けられれば、修養の出来ていないヒトは簡単に暗示にかかってしまうだろう。
もちろんそう洗脳するための、いわゆるシュプレヒ効果狙いなのだろう。
写真ひとつとっても民主党議員の紹介写真はマイナスイメージを持たせるものしか起用せず、発言は捏造に近いところまで編集され、過去の自民党独裁政権当時の負の遺産に関しては緘口令がしかれ、ひたすら民主党議員の揚げ足取りに終始する…
創作に自由がないのは身をもって感じていたが、ジャーナリズムももはや本当に幻想になってしまったのか…

うがった観方かもしれないが、現在のメディア業界(新聞・TVなど)のトップが半島系や宗教関係者になってしまっていることと何か関係があるのだろうか?

民主党政権を倒した後に何が来るというのだろう。

今の報道を見れば見るほど、とどのつまり「戦争」の二文字しか出てこないことにゾッとする。

この世でもっとも儲かる商売は何か?と聞かれれば、論理的な思考を持つ人間ならば100人が100人とも「戦争」と答えるだろう。
今の不況や社会の閉塞感を打破するのにもうってつけである。

民主党政権を倒して一番得をするのは誰だろう?

戦争は嫌だなぁ…

2010年3月7日日曜日

高橋道場

この間TVを見ていたら、とあるコメンテーターが「つまらないヤツほど声がデカイ」と言っているのが聞こえてきて、お!いいこと言うな~と思った
なるほど、俺が嫌いな芸人というのは皆これにあてはまる。
アンタッチャブルの山崎やダウンタウンの腰ぎんちゃく山崎方正など、声がデカイだけで中身はまるで無い奴らばかりだ。

で、今日はテレビ東京の高橋道場というのをなにげなく見ていたのだが、きちんとリサイクル活動を行っている横浜の市制について、くわばたおはらのオハラの方が難癖をつけて非難していたが、とんだお門違いであることに本人は気付いているのだろうか?
いや、恐らく気付いてはいまい。それがルサンチマンであるということだ。
ヒトは自分にとって不利な状況であればあるほど不安を払拭するために怒りを覚える。
自己防衛本能である。蛇足だが忍術に言う五車の術のうち怒車の術がこれに当たる。相手の弱点を攻め、わざと相手を怒らせて冷静さを失わせて本音を吐露させる交渉術の1種である。

オハラに戻ろう。
自分達の住む大阪では恐らくリサイクルの思想さえないであろうことを考えたのか、そのことをあえて棚上げして横浜方式に悪口雑言言いたい放題である。
今の世の中は、優れたシステムやりっぱな行いを為している存在を馬鹿にする風潮にあるのは確かだが、廉恥心のある人間ならばそのような風潮を悲観こそすれ乗せられることはない。
だが、まんまとその風潮に乗り、それをそのまま吐露するオハラのような存在を起用している当番組担当者は番組意図を理解しているとは到底思えない。
つまりは世間的におためごかしで作成している番組であるという印象を与えるのだ。
せっかく番組自体は現代に警鐘を鳴らす意味で大切な問題提起をなし、高橋秀樹というきちんとした大人を配しているにもかかわらず、オハラの起用が全てを台無しにしているのだ。
その1点だけで番組担当者の本音が垣間見える。
つまり、エコや社会派を気取っても、結局はスポンサーから金が引き出しやすいからお題目として唱えているだけで、本当はそんなものに興味なんか無いという本音である。

オハラや小森純のような存在を見ていると、新約聖書に言うビーストやギデオンという言葉を思い出す。
ギデオン、数多きもの…なるほどああいったいわゆる正当なな教育(しつけ)を受けていない、人間以前の存在というものは、「人間」になれなかったものたちであり、実際そのようなものたちが思いのほか増えているという点でギデオンでありビーストであると感じる。
ここでいう「人間」とは「人の間=人間(じんかん)」に生きることを受け入れているものたち、つまり社会という組織を構成・維持する上でのルール=他人をおもんばかることの出来る を遵守するものたちという意味での「人間」である。
百姓(ひゃくせい)とはその名の通り、「百=多く」の「姓」を持つものたち、つまりは民=大衆という意味であるが、大衆がみなオハラのようなモノたちになるのであれば世の中お先真っ暗闇だ。
だが、いまやその危機は目前に迫っている。
今のTVを見ているとそのことがよく判る。

2010年2月25日木曜日

東京都民はかわいそうだなぁ

東京オリンピック招致委員会は、今回大きな赤字負債を作り出したにも拘らず、今後も解散せずに活動を続けるそうだ。
今回の赤字の主因はご多分に漏れず大手広告代理店(電通あたり)による過出費なのだが、今後の活動資金はその広告代理店からの借金によるという。
つまりは大手広告会社がプロミスやアコムなどと同様の金融業務を行って、都から毎年莫大な利子という、旨い飴玉をしゃぶらせてもらうという構図なのだろう。
もちろんそれにぶらさがっている賊議員の存在も忘れてはならない。
有名無実のオリンピック招致委員会なるものをわざわざ存続させるからには、相当な圧力があるのだろう。これが一般企業であれば、そんな大赤字を出しながら事業=招致に失敗した部署など、即解散、担当役員は降格処分または解雇というのが当たり前である。
なのに存続の上、今後もぬくぬくとサラリー(税金)を貰いながら、なおも借金を増やすために消費者金融(大手代理店)から借金を重ね、その利子は税金でという仕組みらしい。
昨今の不況で広告料による収益が見込めない今、こうした新手の吸血方法を生み出した広告代理店の手腕は流石といわざるを得ない。
代理店は実質なにもしないで右から左へ受け流すだけで旨い汁が吸い放題というわけだw
スポンサー(出資者)⇒代理店⇒クリエイター(労働者) この流れでいくらでも飴玉しゃぶり放題だw
まあこの場合のスポンサーというのが東京都、その原資は都民の税金、つまりは東京都民がうまいこと生き血を吸われ続けているという構図なのだろう。
つくづく東京都民はかわいそうである。

2010年2月23日火曜日

「全面禁煙を求める」と長妻大臣発言

不況だデフレだと言うわりに、酔っ払いにもキビシク、外で煙草も吸うな!なんて言ってたら、誰も外で遊ぼうとは考えないだろう。家に篭ってじっとしてるのが一番ということになる。
篭っていればお金も使わないで済むし経済である。今のご時世にはぴったりだw
今回の発言に、個人業主はこぞって「大手による独占を助長させる個人経営潰しだ」といきまいているが、そんなことは今にはじまったことじゃない。
昨今の時流はあきらかに戦前の財閥復活を目論んでのことだから、個人でいくら騒いでもなんにもならない。農業の大規模・工場化や製造業等の資金による一元化など枚挙にいとまはないだろう。

だいたい本気で国民の健康を考えての全面禁煙なら、そもそもタバコの製造・販売そのものをやめてしまえばいいのだ。売るだけ売っといて吸うなというのは、いかにもおかしい。
つまりは吸ってもいいけど選挙の手前これくらいはぶちあげておこうということなのだろうか?

もし本当に路上でも建物内でも喫煙不可ならば、もう喫煙可能な場所は我々庶民の生活圏には存在しないということになる。それこそ広大な敷地を持つ権力者の私有地内や公海上といった日本を離れた場所だけになってしまうだろう。
自宅でだけ吸えばいい、と思っているのなら、それこそヒッキーになれということだ。これは憲法違反である。隔離され外出を禁じられた身のどこに基本的人権・文化的生活が保障されるというのか。
尤もこのままだと自宅喫煙についても外へタバコのにおいがもれ出ただけで訴訟騒ぎになりそうだw
想像すると、かつてのアメリカの禁酒法時代のようにスピークイージーのような地下喫煙所が出来たり、個人輸入によるタバコの密輸喫煙などが出てきたりすると、ちょっと楽しい。
また、どうせ禁止薬物なのなら、この際麻薬でも…という輩も出てくるのは間違いない。

どうも今回の件は選挙目当てにしても行きすぎだろう。
これ以上我々大衆に閉塞感を与えて、この先何がやりたいのか?大衆に働く意欲を与えて国力を上げるためには、大きな娯楽や拝金主義などよりも、喫煙などのようなささやかな自由が必要ではないのだろうか?そしてそれを寛容できる公共性もまた必要ではないのか?人はパンのみにて生くるに非ず、の思想である。

2010年2月17日水曜日

口にものを入れたまましゃべるな!

最近のTVを見ていて、非常に見苦しい、思わず目をそむけてしまう瞬間がある。
それはリアルタイム番組では必ずある、余禄で食事をしている場面でのことなのだが、幇間やお笑い芸人ならまだしも、文化人気取りのコメンテーターや局アナまでが、食べてすぐ、まだ口の中に食べ物が入っている段階で口を開いて、口中のグロテスクな内容物を視聴者に見せてしまう瞬間である。
どんなにおしゃれをしていようと、どれだけ美人であろうと、百年の恋もいっぺんにさめてしまう瞬間である。
芸人ならばそのような下品さも下劣さも逆手に取り、皆に馬鹿にされ笑われることを、あえて提示することで銭を得る生業と為している社会的に下等な存在であるのだから、我慢は出来ないまでもまだしも納得は出来る。
それを女子アナまでが平気で行うのだ。
実に耐えられない。
思わず口中のゲロを見せ付けられているようで、こちらまで吐き気がする。
自分達が子供の頃は、口中にものを入れたままでけっしてしゃべってはならないと教育を受けたものである。ここでいう教育とは学校などでの知識教授のことではない。教育とは元来家庭で行われるものだからである。
さすがにそのような教育がきちんと出来ている年配の方や女優などは、口中のものを飲み下してから口を開いて感想を述べるが、中途半端なタレントやコメンテーターなど、躾けが不自由な人々は平気で口中のものを画面に映し出して見せる。これはもちろん現場のディレクターにも問題はあろうが、なによりこのような下品な画面を見せられて抗議をしない我々国民にも大いに問題はあるだろう。だが、そのような国民を生み出し続けているのが現在のTV番組であることをこそ、各局のTVマンたち(NHKを除く=さすがにNHKの職員はそのような下劣な行為は未だタブーとされているようで安心だ)は自覚しなければならない。目先の欲に駆られて民度を下げているという自覚をだ。
「鶏と卵どちらが先か」ではないが、TVの与える影響力というものを、もっと真剣に考えて欲しい。いかに家庭教育がきちんとしていようと、TVで与えられる情報に子供たち(精神的な存在も含む)は簡単に感化されてしまうのだ。ローリングストーンという言葉がある。イージーゴーイングという言葉もある。人は誰しも楽な方へ流れていくものである。それをくい止めるモノ、くい止める努力を為すことが文化であり、人が精神的にも高次の動物であることを証明する唯一の手段でもあるのだ。
それを放棄することは人間であることを止め、獣に戻ることを意味する。

2010年2月10日水曜日

「心にのこる日本の歌」

似非(エセ)が増えたな~

と単純に思う。学者にしろ弁護士にしろ最近のバラエティに出ている人間たちは、本当に肩書き通りの人間なのか非常に疑問に思えてしまう。ニュースにしてもそうだ。およそ文化人(死語)とは思えない自称ジャーナリスト、自称アナリストといったコメンテーターが多すぎる。
彼らには、まず肩書きに見合ったイーソス=品格というものが感じられない。代表者として山崎方正と顔も性格も同じようなくだらなさの弁護士とか…底が浅すぎてカメラに写っている時と写っていない時のギャップが激しい状態が容易に想像出来てしまう品性下劣な人物が多すぎる。
特に心理カウンセラーを名乗る輩など、資格不要の職業なので誰でも名乗ることができるから、自称詐称の有象無象ばかりに見えて仕方がない。今TVに出ている人間で信用できるのは、クオリア研究などで一部に有名な脳科学者の茂木さんくらいであろう。
考えて見れば品性があればTVなどは出演を見合わせる感覚を持っているはずだから、まあ、元からコメンテーターなどを引き受ける人間など信用する必要はないのかも知れない。
それにつけても今のTVは、開き直って「俺(私)は下品だよw」と己の下劣さを自慢するような人間を、ことさら強調し、巷間に下劣な人間達を増やす努力を続けているように見えて仕方がない。下品さのインフレーションとでも言えばいいのだろうか。もっと下品にさらに下品にという一種のダウンスパイラルに陥っているようだ。特に小森純なるモデル?の存在はその焦眉であろう。
そんな番組や芸人・コメンテーターたちを見て育った子供たちに、我々は老後の面倒を見て貰わねばならないのかと思うと、もはや不安などでなく、絶望に近い諦めしか持てない。
きっとそんな子供たちは「時計仕掛けのオレンジ」のように。

別の例としては元全学連活動家(かつてガチャ目だったのは機動隊員の暴行による障害)のアジテーターリーダー・テリー伊藤などのようにアナーキズムを標榜する輩は、世の中を混沌となすために、わざと文化の質や権威を落とさしめ、さらに過激にさらに下品な世の中にするべく工作を行っている場合もあるが、これはテリー氏の思想の元に行われている運動なので、共感は出来ないが一定の理解は出来る。昨今転向した気配も見受けられるようだが、氏の本質は死んでも変わることはないだろう。

そういえば昔、心に残る日本の歌という番組を見ていて、漠然と「今は似非ばっかりだな…」と思ったことを思い出した。

80年代という特殊な時代はバブルやイデオロギー主義の消滅など、構造的に何かが大きく変化した時代であった。そのことが「本物」を追い出し「似非」の隆盛を招いた一因であることは間違いないだろう。「悪貨は良貨を駆逐する」けだし真理であろう。
キャンディーズらピンでは下手すぎてボロが出るのでグループで…という連中が出てきた時に感じた危機感が、現実になったのが80年代と言い換えてもよいかもしれない。
70年代フォーク世代の挫折と自暴自棄とも思える、投げやりな金・権力への擦寄りが生みだした様式が確立した80年代という時代…その萌芽は70年代に出てきた天地真理・浅田美代子や、田原俊彦らジャニーズの登場に象徴を見ることができよう。
いわゆる本物よりも華美な似非を好む文化の台頭である。

昔、聖徳太子の存在を否定した津田左右吉という歴史学者がいた。彼の説を大雑把に要約すれば、歴史上厩戸王子と呼ばれた人間は、居たのかも知れないが、十八条憲法制定などの偉業を成した、国民誰もが知っている聖徳太子というような人物は存在しない。彼は当時の権力者たちによって造られた、架空の人物像であるということになるだろうか。国家で成した業績を、まとめて1人の人物に集約することで、聖徳太子というヒーローを作り出す必要があった人々による、想像上の人物像であろうという説である。考え方としては、現代社会でも事業の成功や大学の研究成果などが、1人のリーダー・学者の功績のように扱われていることを卑近な例として挙げられるかもしれない。

だが、そのような通俗な価値観で計ること自体が問題ではないのか?
大事なのは「聖徳太子」を生み出した精神なのである。
聖徳太子のような存在は、ひとつの理念なのである。道標といいかえてもいい。コロンブスの卵の例を持ち出すまでもなく、それなくしては成り得なかった、目には見えず形も残らない、だが確実に将来へ影響を残すであろう「思考=考え方」そのものが重要なのである。
ゆえに津田氏の説に触れた時、私には理解も容認も出来なかった。もちろん津田氏の生きた時代性ということもあろう。当時軍部が富国強兵を進める上で、聖徳太子や二宮金次郎などを広告塔に使用したことに対するアンチテーゼという背景もあったのだろう。だが、それでもなお聖徳太子を否定したことは、偉人伝にケチを付けて地位を引き摺り下ろそうとする、氏のルサンチマンの発露に思えて仕方がないのだ。
もちろん、氏の功績は記紀の研究方法の手法や検証方法が、現代の歴史学の検証方法などに受け継がれていることを見てもわかる通り、りっぱであったのだろう。だが私は津田氏の書物もウルトラマンが科学的に実在出来ないとする冗談科学論も、「猪口才」という点で同じもののように思えて仕方がないのである。

偉人伝は必要である。
勝海舟も回顧録の中で、思春期・青年期に異性が気になり我慢出来難い時には、スポーツで健康的な汗をかき、偉人伝を読むことで青雲の志を奮い起こした、というエピソードを語っている。
人間が健全な社会という契約世界を維持し続けられるかどうかの鍵を、見事に物語っている名エピソードである。品格というものはまさにこのような精神から生まれて来るものであるのだろう。
偉人の業績を素直に受け止めるられるか否かは、「本物」を認められるかどうか、その人間の精神の在り様に依存しているからだ。
「本物」を認めるには肉体とともに精神が健全であり心が強健であるという条件を満たさねばならない。そうでなければ、己の中のルサンチマンを抑えることが出来ないからだ。そういった修養が出来てない惰弱な精神では、「本物」の持つ迫力に耐えられないのだ。ちょうど訓練を積まずにいきなりプロスポーツが不可能であることと同じだ。肉体同様、心も鍛えぬかなければ本物の持つ重みを受け止め支えることは出来ない。へたに手を出せば、その心はポッキリ折れてしまうだろう。だから昔から「本物(の運動の場)」には近づくな!近づくにはそれなりの準備が必要である!という教えなり教育なりが行われていたのだ。
「健全な精神よ、健全な肉体に宿れかし」
それをなおざりにし、自由と我儘を同義語と勘違いした世代の台頭によって、やがて日本の文化は崩壊してゆくのだが。その発端が80年代に垣間見えたのが「心にのこる日本の歌」という番組によってであったのだ。
番組に登場する本物の歌手たちの朗々と歌い上げる姿を見るにつけて、「正しい精神の鍛え方」という伝承が断絶した=終わったのが、まさに80年代であったのだなあ、と考えた次第である。

2010年2月7日日曜日

「マスコミ」と「事実」は違う

至極名言である。
本日もさまざまな番組でいろいろなことをMCやコメンテーターが我儘に(自由にではない)発言しているが、聞けば聞くほど見苦しい。
その中で一服の清涼剤となった発言が「マスコミ(という存在のなかで発信される文言)と事実(である出来事)は違うものである」という定理である。
これは正しい。どの番組も番組である以上、必要以上に恣意的である。それはCMに代表されるようなイメージ戦略を使用しての、世論の情報操作であったり大衆誘導であったりさまざまだが、ゆえに語られていないことのなかにこそ真実はある。
TVで発信されるような物事には、なんの真実もない、酒場での与太話に等しい。その程度のことであるということだ。
TVにジャーナリズムが存在するという幻想は、過去にはあっても現在にはない。
特に坂本弁護士一家殺人のための個人情報をオウムにリークしたTBSや、さんご礁を自ら破壊し、ダイバーのモラルの低下を訴えた朝日などは信用ならないTV局の大代表だろう。
しかし民間企業である以上それは当たり前のことである。権力におもねり、スポンサー(金力)に尻尾を振らないでTV局の生存はないからだ。
別の見方をすればスポンサーという企業の在り様が社会を形成し、代表的世論にも為り得ることを考えれば、少なくともスポンサーの方を向いているうちは、畢竟我々大衆の方を向いているということになるともいえる。

許せないのはNHKであろう。国民から視聴料という名の税金を毟り取り乍、なにゆえに中立を保てないのか。一部宗教団体・圧力団体におびえてでもいるのか?と思いたくなる報道も散見される。しかも最近はCMの量が増えすぎてとても見づらい。ここでいうCMとは自社制作番組の宣伝CMのことである。酷いときは5分以上もCMを連続で流し続けていたりする。いい加減にしろ!といいたい。NHKは唯一の美点は、くだらない商業CMを見なくて済む、という1点のみにつきるからだ。なのに自社制作番組CMをダラダラと垂れ流しされたのではなんの意味もない。金返せ!といいたくなる。

所詮お茶の間のにぎやかしでしかないTVという存在そのものをニュースソースとするような人間は、程度が知れているということなのか。己の目で見、己の耳で聞いて判断する訓練を積め!TV報道の裏側を類推し、クオリアのようなものを会得する訓練を積め!ということなのかもしれない。

ところでふと素朴に思ったのだが、今の自民党総裁や議員らがTVカメラに向かって愚痴っていることは、いったい誰に向けて発信しているのだろう?どう聞いてみても自民党内部の過去の汚点を自分の口から論っているようにしか聞こえないのだがw
考えて見れば鈴木ムネオも田中真紀子も小沢幹事長も、皆自民党のど真ん中に居た人たちではあるww

2010年2月4日木曜日

心が和む喜八映画 ♪

TVがつまらなすぎてしょうがないので、岡本喜八の映画を連続で見ている。
やっぱり喜八はいいなぁ~。心が洗われるようだw
スカパー様々というところだ。
今回は未見だった映画が何本も見られて実によい^^v
もともと岸田森が大好きで、その昔出演作を探しては見た中にあった「ダイナマイトどんどん」以降、すっかり喜八に嵌ってしまったのだ。
世の中の不条理に心が折れそうになったときは、喜八に限る。なによりの特効薬だw
まさにエンターテインメントというものの存在がここにある。
「地獄の饗宴」や「顔役暁に死す」などを見ていると、松田優作の角川映画は喜八のオマージュであったことがよくわかる。洒落が効いている分、喜八の方が上等であるw
さあ、また見ようww

2010年2月2日火曜日

ポストモダン?ww

政権交代・日航倒産・百貨店退却・Ipad・アバター・貴乃花理事選勝利…
慌てうろたえた口ぶりでいろいろな出来事をTVニュースでは伝えているが、これは文化の世代交代が完全に成し遂げられようとしている現れではないだろうか?
それもただの世代交代ではない。
精神の大きな変革がまさに2010年の今起こりつつあるのではなかろうか?
昭和はバブル崩壊とともに終わったと思っていたが、完全なる終焉が今なのかも知れない。
それは権力構造にも集金システムにも大きな変革をもたらすだろう。
もう、みの〇んたの時代ではないのだ。
日和見主義で「権力におもねろ!」と叫んでいる、みの世代の時代ではなくなったのだ。
この現象は喜ぶべきことだと思う。そして悲観もしなくていい。人に必要なものはいつの時代にも必ず残されてきた。
そう、どんな時代でもエポックは残る。良し悪しではない。それが古典というものになるのだから。
ならばこれからもエポックを創造できるよう修練すればよいだけのことだ。
硬直したモダニズムはちょうど衣替えの時期に来ているのだ。
衣替えの時期に変えられなかったものは笑いものになるだけである。
メディアもそうなのであろう。いま、まさに新聞・TVというメディアが生き残れるかどうか勝負の時が来ていると思う。

2010年1月28日木曜日

いじめ国会

ニュースを見ていて本当にがっかりした
いま国会で何をやっているかというと国民をなおざりにひたすら自民党らによる民主叩きである。
もちろん政敵を完膚なきまでにやっつけるというのは、権力争奪合戦である以上仕方がないのかもしれない。
だが、あまりに品位がなさすぎる。
やじに対して「うるさい」と一喝して何が悪いのか。夫人がイベントに出席して何がいけないのか。
会議中にあくびをしたことをことさらあげつらって非難することに何の意味があるのか。
今の国会を見ていると、すでに学級崩壊ならぬ国会崩壊を起こしているのではないのか。

さらにその崩壊現象に加担しているマスコミの責任は政治家以上だろう。
今のニュースで捏造まがいの洗脳誘導をしているマスコミの連中は今後日本の10年間にたいしてどれほどの責任を取るつもりなのだろう。
否、責任感などまったくないに違いない。
そうでなければこれほど展望のない報道はしないだろうから。
結局目先の欲に駆られて大勢を俯瞰できない連中がやることだ。
津田左右吉の呪いでもあるまいに、日本式文化大革命の成果を今更ながらに見る思いで歯がゆいばかりだ。

2010年1月26日火曜日

言論の自由

今の日本に言論の自由はあるか?

TVには無い
新聞にも無い
ネットにはところによって少しだけある

ちょっとだけ仏風にしゃれてみたw

上手下手

ニュースや国会中継を見ていて、ふと疑問が持ち上がった。

いつから野党を上手(かみて)で撮るようになったのだろう?
今までは与党が上手、野党は下手(しもて)であったと思ったが…
劇・映画などの基本になるが、撮影するときには正義側・権力側を上手で撮影するものである。
昨今基本を忠実に守るカメラマンも少なくなったが、国会中継などはカメラの配置位置は決まっているのではないだろうか。であれば与党は右(上手)、野党は左(下手)というように配置されていてしかるべきだと思うのだが。それとも自由にカメラを設置できるのであろうか?

以前は必ず与党(自民党)が上手で撮られていたように思う。
それが民主党になってから、いや恐らく今年の本国会からであろうが、なぜ与党が下手(弱者的ポジション)撮りになったのだろう?
サブリミナルなどというはるか昔に否定されたカビの生えた迷信を持ち出す気はないが、右利きの多い世間では上手・下手の理論は実際に有効である。
それがわかっているうえでの今回のカメラ位置変更なのだろうことは容易に想像できる。

もしもこの裏に大きな力が動いているのだとしたら…
マスコミ・メディアはすでに政治以上の大きな力に支配され済みなのだとしたら…

なんだか本気で怖くなってきた。

2010年1月22日金曜日

可視化法案

この法案は、可及的速やかに出来るだけ速く可決したほうが良いに決まっている。

一日遅れれば遅れるだけ、どこかで誰かが冤罪に苦しまないと限らないではないか。

それなのにニュースなどで「先延ばしするべきだ」などとのたまっているコメンテーターを見ると、一体何を考えているのか?と大いに疑問に感じる。

法案が可決すると困ることがあるのだろうか?

もちろん警察・検察といった力を行使する側が困るのはわかる。もっとも正々堂々誰にも羞じることなく取調べを行っていれば、なんら困ることはないと思うのだが。

もちろん悪に対抗するには悪で立ち向かわねばならないケースだってあるだろう。
そしてその必要悪を攻撃する勢力もあることは皆知っている。

だが、それが正しい行為、しかるべき行為であるならば、民衆は支持こそすれ反対するものなど1人もいないだろう。反対するのはそれで利益を得る圧力団体や、組織的暴力で生業を為すものたちだけであるからだ。

にも関わらず、可視化法案早期可決に反対するコメンテーターたち…

今、民衆は政治不信よりもマスコミ不信に陥っている。

それがマスコミが思ったよりも、大衆が小沢問題で盛り上がらない原因なのだ。

マスコミは小沢祭りや民主党叩き祭りに火を点けたいのだろうが、もう我々はマスコミのそういった手口にウンザリしている。

そんなことよりも目の前の生活を、明日食べるための米を求めているのだ。我々が欲するのはそういう情報なのだ。どこへいったら働けるのか?どこにいったら飢え死にしないですむのか?

だが、そういう不安をまったく持たないでよい安定したサラリー暮らしのくせに、したり顔で声高に政局を混乱させたがるアナウンサーやコメンテーターたち。

マスコミはこの疑問に答えられるのか?一体誰のためのマスコミなのか?誰の権利を守るためのジャーナリズムなのか?

今、民衆は冷静な視線をTVやマスコミに向けている。

2010年1月21日木曜日

馬鹿を見る

かつて中国の権力者が、己に味方するものを選別するために行った故事に由来する「馬鹿」という言葉がある。

皇帝の面前に居並ぶ高官たちの前に一頭の鹿を引き出し「陛下、献上された馬で御座います」と口上を述べた。当然皇帝は「これは鹿ではないか?」と聞き返す。そこで周りの高官たち一人一人に馬か鹿かと答えさせ、「馬」と答えたものは重用し、「鹿」と答えたものは左遷や暗殺を行ったという。

今回小沢氏の土地購入問題に関する一連のニュース報道や番組MC、コメンテーターの意見を聞いていて、漠然とこの故事を思い出したのは私1人ではないだろう。

小沢氏側が清廉潔白などとは民衆もとうてい思ってはいないだろう。清廉潔白であったばかりに推挙した弟子を若死にさせてしまった孔子の言葉を思い出すまでもなく、清廉潔白では政治家を続けていくことは不可能であろうことは容易に想像がつくからだ。

しかし、民衆が望んでいることは世の中の安定である。盗殺に頼らないでも生きていける社会の構築である。

多少の悪ではあっても、世の中の安寧のためには必要な悪もあるという事実はみな理解しているのだ。だが、一方ルサンチマンも持ち合わせている。そこを煽り誘導支配していく手段がメディア戦略である。

まさにその戦略がここまであからさまに使用されている現在のTVの現状をどう見ればよいのだろう。

バブル以降、ジャーナリズムの精神や中立性・反骨精神といわれるものがどんどん失われている現実。このまま進んだ結果、この国がどのように変容していくのか。

ふと視点を変えれば面白い時代に生まれてきたともいえるかもしれないw

まさに平安末期、江戸末期、そして大正末期のようでもある。

2010年1月18日月曜日

昨今のニュースを見るだに考える

アメリカも中国も徐々に立ち直りかけている状況で、日本だけが不況から脱することは出来ないだろう。


このような状況下で自民も民主もないだろう。政治家は一丸になって日本を浮上させるために頑張らねば、政治家としての意味はないのではないか?

それを自民は過去の集金システムの復活を夢見て、民主の足を引っ張るばかり、財界も権力を行使して格差を埋める努力を水泡に帰そうと、あの手この手で絡めてくる。

誰も5年後、10年後の日本を考えていない。

これでは諸外国に遅れを取るのは必至であろう。

権力者同士の争いで不幸な目に合うのはいつでも民衆である。だが今は戦国時代でも応仁の乱でもないではないか。

検察だって人間である以上、自分達の暮らしを第一に考えるのは当然であるし、仕方がないことなのかもしれない。

だが、もう一度大きな視野で、今後の日本のために、今何をなすべきか、なにをなさざるべきかを考えて欲しい。

正義は遠まわしに婉曲に行われなければならない。そうでなければ、それは正義ではなくなるからだ。

こんな基本も判らない分別を失くした人間が検察のトップに居るのであれば、その人にこそご退陣願いたいものである。

2010年1月17日日曜日

田原のしっぽが見えてきた

言論誘導のよりどころが読売・毎日・朝日新聞の記事からというところが、まさに象徴的である。


TVもそうだがこの3社は去年の選挙前から民主党批判を繰り返してきたところばかりだ。

警察も検察も権力者サイドの守り手であるのは当然である。ならば現在の真の権力者は誰か?あるいはどこか?という疑問が出てくる。

そういうことを考えさせるほど今のマスコミや検察の動きはおかしい。

政治は必要悪である。民主党も叩けば多少の埃は出るだろう。だが、それ以上に自民の方が埃は山のようにあるはずだ。

なのに民主ばかりを目の敵にする理由はどこにあるのか。

我々民衆はそこを見極めなければならない。そうしないとかつての大政翼賛会のように情報操作でいいように操られていくだけである。

それでもいいよ。だってめんどくさいじゃん。

そう考える人々もいるだろう。いや、そう考えるように教育・誘導するこそことが為政者が長年研究してきた大衆操作の最終目標であるのかも知れない。

メディアはそのための武器であるのだから。

2010年1月8日金曜日

たけしのにっぽんのみかた

「夜ぐっすり眠れるのは、誰かが守ってくれているからだ」 ショーペンハウエル

その手法で言うならば
「米を作ってもいないのに米が食えるのは、誰かが米をつくってくれているからだ」
となる。同じように、
「牛を飼ってもいないのに牛乳が飲めるのも肉が食えるのも、誰かが牛を飼ってくれているから」
であるし、魚にしても野菜にしても、はたまたこのブログにしてもそうだ
そして何物をも生み出さず、貪欲に浪費するだけの人間はまたこういうかもしれない
「モノをつくっていられるのは、誰かがソレを浪費してくれるからだ」と
しかし、それは欺瞞である。モノ作りを瞞着する老獪な罠である。
浪費は罪悪でしかない
ここでいう「浪費」とは己の肉体や精神の必要最低限の糧以上に消費する行為を言う。
消費する行為自体が罪悪と言ってもいいかも知れない。
アイヌのイヨマンテに代表される消費の際の祭りやクリスチャニティに言うところの「原罪」思想である。
今でも他者の生命を奪ってしか生きることのできない我々は、食材に対する感謝の念で「(あなたの命を)いただきます」の精神で食事をしている。
その精神があれば浪費はしない。当たり前のことである。
浪費は原罪(消費)以上に罪を重ねる大悪であるからだ。
それが己の才覚で得られるもの以上のモノを消費しているのであればなおさらだ。
その分別を持てるようになってはじめて「大人」と呼ばれるようになる。
「大人」とは一種の身分であって、年齢を経れば得られるものではない。
身分相応の考え方・精神を得るための、努力や才能が必要なのである。
今日の番組はそのことをより印象付けるための一種の警鐘番組であったのだろう。
たんなる世代間抗争の結果であってよいはずはない。
そう信じなければお先真っ暗ではないか…

2010年1月7日木曜日

2022

人類は3種に分類されるようになった。いわくS(サイボーグ)・BS(バイオサイボーグ)・N(ナチュラル)である。

致死(キラー)遺伝子の解析によるバイオファージ医療の進化により、相応の資金があれば人はその寿命を3倍に延ばすことに成功したからだ
すでに21世紀初頭においても一部利用されていた技術により先駆となった人物もいた
Sの代表には、故マイケル
BSの代表には、桃井・BS・かおり がいる
S・BSともに莫大な費用が必要なため、数は限られる
尚、整形に関してはいまだに議論が分かれる
整形の中でも外部部品を使用した場合はSに入るが、自己遺伝子によるクローン部品を含むか含まないかで意見が2分されているためである

2010年1月4日月曜日

カンブリア宮殿はおもしろい

今日の小沢一郎は面白かった。
どの局も民主叩きや小沢叩きに汲々としている中、これほどストレートに小沢一郎を紹介した番組はなかったのではないだろうか。

横道に反れるが、昨今、制作現場では創価学会による統一・統制が着々と進められてきた経緯がある。実際芸能界やTV業界において、学会員でない人間を探す方が難しい。すでにアニメ業界ではほぼ創価による統制は終盤にさしかかりつつあり、これは(創価学会員の)スポンサーからの指示もあるが、学会員でない監督や演出家といったトップの追い出しに、ほぼ成功しているという現実があるからだ。その結果素人同然の監督や演出が増加し、いまやアニメは見る影もなくクオリティは低下しまくっている。
創価の作戦は大学などで青年同盟が行うのと同じ手法が取られている。まず、創価関係の息がかかったスポンサー等の要求で、実績がないものがいきなり監督やPに登用されたかと思うと、登用された人物がその仲間達を現場に次々と参入させて、占拠する会社なり現場での昔からの実力者を追い出して学会員でトップを固めて行くのだ。ひとつの会社の制圧が終了すると、また別の会社へ移籍して同じことを繰り返す。そうして気が付くと学会員でないものは誰もいなくなるという仕掛けである。もちろん社内が全員そうというわけではない。そういう会社も存在するが、大概はPや監督・演出といった制作現場を仕切るトップが学会員に占められているということだ。

まあ本題はそのことではなく、小池栄子(創価学会員)をアシスタントにして、メーソンリーである(と噂の)小沢一郎とリベラルな村上龍との対談が、絵としても内容としても実に面白く有意義であったということである。
日本TVや毎日放送、TV朝日などではまず不可能であろう番組内容であった。東京12チャンネルが、ますます謎な存在になってしまったw