2010年3月7日日曜日

高橋道場

この間TVを見ていたら、とあるコメンテーターが「つまらないヤツほど声がデカイ」と言っているのが聞こえてきて、お!いいこと言うな~と思った
なるほど、俺が嫌いな芸人というのは皆これにあてはまる。
アンタッチャブルの山崎やダウンタウンの腰ぎんちゃく山崎方正など、声がデカイだけで中身はまるで無い奴らばかりだ。

で、今日はテレビ東京の高橋道場というのをなにげなく見ていたのだが、きちんとリサイクル活動を行っている横浜の市制について、くわばたおはらのオハラの方が難癖をつけて非難していたが、とんだお門違いであることに本人は気付いているのだろうか?
いや、恐らく気付いてはいまい。それがルサンチマンであるということだ。
ヒトは自分にとって不利な状況であればあるほど不安を払拭するために怒りを覚える。
自己防衛本能である。蛇足だが忍術に言う五車の術のうち怒車の術がこれに当たる。相手の弱点を攻め、わざと相手を怒らせて冷静さを失わせて本音を吐露させる交渉術の1種である。

オハラに戻ろう。
自分達の住む大阪では恐らくリサイクルの思想さえないであろうことを考えたのか、そのことをあえて棚上げして横浜方式に悪口雑言言いたい放題である。
今の世の中は、優れたシステムやりっぱな行いを為している存在を馬鹿にする風潮にあるのは確かだが、廉恥心のある人間ならばそのような風潮を悲観こそすれ乗せられることはない。
だが、まんまとその風潮に乗り、それをそのまま吐露するオハラのような存在を起用している当番組担当者は番組意図を理解しているとは到底思えない。
つまりは世間的におためごかしで作成している番組であるという印象を与えるのだ。
せっかく番組自体は現代に警鐘を鳴らす意味で大切な問題提起をなし、高橋秀樹というきちんとした大人を配しているにもかかわらず、オハラの起用が全てを台無しにしているのだ。
その1点だけで番組担当者の本音が垣間見える。
つまり、エコや社会派を気取っても、結局はスポンサーから金が引き出しやすいからお題目として唱えているだけで、本当はそんなものに興味なんか無いという本音である。

オハラや小森純のような存在を見ていると、新約聖書に言うビーストやギデオンという言葉を思い出す。
ギデオン、数多きもの…なるほどああいったいわゆる正当なな教育(しつけ)を受けていない、人間以前の存在というものは、「人間」になれなかったものたちであり、実際そのようなものたちが思いのほか増えているという点でギデオンでありビーストであると感じる。
ここでいう「人間」とは「人の間=人間(じんかん)」に生きることを受け入れているものたち、つまり社会という組織を構成・維持する上でのルール=他人をおもんばかることの出来る を遵守するものたちという意味での「人間」である。
百姓(ひゃくせい)とはその名の通り、「百=多く」の「姓」を持つものたち、つまりは民=大衆という意味であるが、大衆がみなオハラのようなモノたちになるのであれば世の中お先真っ暗闇だ。
だが、いまやその危機は目前に迫っている。
今のTVを見ているとそのことがよく判る。

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