2010年3月29日月曜日

ちょっと想像してみた

人の生涯賃金は3億円ということらしいが、まあ大雑把に考えて働ける期間は20~60歳までの40年間として…3億を40年で割ると平均年収は750万になる。で大方の人は定年に近くなるほど年収はアップするだろうから、20~30までは年収500万、30~40までは700万、40~50までが800万、50~60が1000万みたいな計算になる。
で、そんなに貰えている人間が一体どれだけいるかと考えてみると…
どうも8割くらいの人はそんなに貰えてないのではないだろうか?
だとしたら残りの2割の人たちが非常に高額な金銭を貰っているということになる。
その人たちはそんなに貰えるほど働いているのだろうか?世の中に貢献しているのであろうか?
どうもそんなことはなさそうだ。
だったら何故そんなに高額を得ることができるのであろう?
答えは単純である。そのように高額を得る仕組みを持っているからである。
その仕組みはなんでもいい、結果的に高額を得ているという事実があるだけである。
その仕組み=ルールを知っていて、それをうまく利用できるものだけが高額所得者になれるのである。

ディレイニーの小説に「時は準宝石の螺旋のように」というのがある。
主人公は最初は貧乏なコソ泥である。それが最後にはセレブの仲間入りを果たし、自分達セレブの生活維持のためのルール作りに加担するようになるまでの立身出世物語である。
いかにも資本主義の本質を描いた名作であるが、では皆がその物語の主人公のように行動できるのかというと、とてもとても小心で善良な一般人にはマネなど出来ようはずもないない。
(一時期「勝ち組になるための10の法則」みたいな指南書が多く出回っていたが、そこに述べてあることを実践すれば出来るようになるかもしれない)
結局は悪事を行う=自らの手を汚すだけの度胸も器量もない善良な人々は、いつまでも貧乏で食い物にされるだけなのだ。ということなのであろう。

ダムだの郵政だの道路だの株だの証券だの、世の中にはいろいろな旨い仕組みや合法的な詐欺が存在するわけだが、金持ちになりたい人はそういったルールを上手に利用するのが良い。
TVに出ている司会者やコメンテーターは皆、それらのルールに則った世界に住む我々庶民とは一線を画する存在である。
いわゆる別世界の住人たちである。
ゆえに当然彼らが言っていることや行う運動は、彼らの世界を擁護するものであって、我々庶民がどうなるかなどまったく眼中にないと思ったほうが間違いがない。

今日もTVのニュースバラエティを見ながら、なんとなくそんなことを想像してみるのであった。
俺ももっとスルーする力を身に付けて、なにも考えないようにしなくちゃなー
そうしないと幸福にはなれない気がする。

2010年3月23日火曜日

斬九郎の面白さについて考えてみる

まず心地よい緊張感
役者(※)しか出ない現場の真摯な姿勢
キャスティングの妙
練りこまれたシナリオ
打算のない絵作り
プロ魂
後味の良さ
大人のファンタジー
時代劇の意味

※滑舌の悪い2世や芝居が出来ないお笑い芸人を排除した

2010年3月18日木曜日

こんな日本に誰がした?

もちろん答えは自民党である。

まあ、もとから地上波はニュースを見ることがメインで、たまにバラエティや情報番組を見る程度なのだが。
それにつけても最近のニュースはアナウンサーやコメンテーターなどが、皆解説者気取りで誰に吹き込まれたのか、先をまったく見ていないかのような国民生活をないがしろにしたブルジョワジー的なことしかしゃべらないので、聞いていてイライラする。
考えてみれば、すでにTVに出ているという時点で彼らは特殊な存在である。高給を貰い将来も保証され、バブルが弾けようが信用取引(合法的詐欺)による金融不安を引き起こそうが、つまりは庶民ではない彼らにはなんら関係のない、勝ち組に属する一党であるということだ。
ならばブルジョワジー擁護・庶民生活からの乖離の発言を為すのは至極当然のことなのだろう。

しかし心ある人間ならば、裏でいくら王侯貴族のような贅沢な生活を謳歌していようが、表には微塵も表さないものだ。自分が金持ちであるとか、人より優れていることをひけらかす行為は品性下劣な証であるからである。一昔前の医者などは、どれだけ稼いでいようがあえて車はカローラを選んだものである。

それが今ではどうだ…まるで教育を受けていない成金アメリカ人かと見まごうほどの堕落ぶりである。
だいたいが「勝ち組」などという下品な言葉を使うようになったことからもわかるように、今の日本人(TVに映っているだけの限られたものたちだけではあるが…)は、あきらかに文化的に不自由なものたちである。
もっとも縁故採用ばかりで、ちゃんとした教育を受けていない連中が牛耳っているようなマスコミ番組に、品性や理性・論理的であることを望む方が間違っているのかもしれない…

もはや古きよき日本は失われてしまったということなのだろう。
「国体(’日本人’を形成するナショナルアイデンティティ)」の破滅である。
(戦争に負けるということはこういうことか…)

十・廿・世、アラビア数字で表記すると10・20・30であるが、つまり30年で代替わりするというのが「世」「世代」であり「世間」であるとする考え方である。
人は20歳で人に成り=成人=人間の仲間入りをし、社会の中で30年間活躍した後、50歳で一区切りをつける。下天(人間界のひとつ上方に存在する世界=仏教用語)にいう、たった一日(我々の世界では50年)のうちの社会活動に宛てられる運動期間がつまりは「世」ということだ。
これらは皆、昔の人の優れた感性によるいわば市井の哲学のようなもので、現代では通用し難いものなのだろう。
平均寿命は延び、働かなくても食べていける環境を生み出した現代文明社会においては、20歳で成人などにはなれない世の中になってしまっている。せいぜい30~40でやっと成人になれるかどうかという民度レベルであろう。
だが、30年を一区切りとする考え方は現代でも通用しそうだ。流行を観察して漠然とそう思うときがある。

2010年3月9日火曜日

ニュースが怖い

核持込みに関する密約報道で、当時の自民党を擁護し今の民主党を非難するかのようなニュースキャスターの口調を聞いていて、そら恐ろしくなった
今、TVはどこに向かおうとしているのだろう?

朝も昼も夕方も、相も変わらず民主党を必要以上に攻撃し続ける報道ばかりだ…
こんなものを毎日・毎晩見せ続けられれば、修養の出来ていないヒトは簡単に暗示にかかってしまうだろう。
もちろんそう洗脳するための、いわゆるシュプレヒ効果狙いなのだろう。
写真ひとつとっても民主党議員の紹介写真はマイナスイメージを持たせるものしか起用せず、発言は捏造に近いところまで編集され、過去の自民党独裁政権当時の負の遺産に関しては緘口令がしかれ、ひたすら民主党議員の揚げ足取りに終始する…
創作に自由がないのは身をもって感じていたが、ジャーナリズムももはや本当に幻想になってしまったのか…

うがった観方かもしれないが、現在のメディア業界(新聞・TVなど)のトップが半島系や宗教関係者になってしまっていることと何か関係があるのだろうか?

民主党政権を倒した後に何が来るというのだろう。

今の報道を見れば見るほど、とどのつまり「戦争」の二文字しか出てこないことにゾッとする。

この世でもっとも儲かる商売は何か?と聞かれれば、論理的な思考を持つ人間ならば100人が100人とも「戦争」と答えるだろう。
今の不況や社会の閉塞感を打破するのにもうってつけである。

民主党政権を倒して一番得をするのは誰だろう?

戦争は嫌だなぁ…

2010年3月7日日曜日

高橋道場

この間TVを見ていたら、とあるコメンテーターが「つまらないヤツほど声がデカイ」と言っているのが聞こえてきて、お!いいこと言うな~と思った
なるほど、俺が嫌いな芸人というのは皆これにあてはまる。
アンタッチャブルの山崎やダウンタウンの腰ぎんちゃく山崎方正など、声がデカイだけで中身はまるで無い奴らばかりだ。

で、今日はテレビ東京の高橋道場というのをなにげなく見ていたのだが、きちんとリサイクル活動を行っている横浜の市制について、くわばたおはらのオハラの方が難癖をつけて非難していたが、とんだお門違いであることに本人は気付いているのだろうか?
いや、恐らく気付いてはいまい。それがルサンチマンであるということだ。
ヒトは自分にとって不利な状況であればあるほど不安を払拭するために怒りを覚える。
自己防衛本能である。蛇足だが忍術に言う五車の術のうち怒車の術がこれに当たる。相手の弱点を攻め、わざと相手を怒らせて冷静さを失わせて本音を吐露させる交渉術の1種である。

オハラに戻ろう。
自分達の住む大阪では恐らくリサイクルの思想さえないであろうことを考えたのか、そのことをあえて棚上げして横浜方式に悪口雑言言いたい放題である。
今の世の中は、優れたシステムやりっぱな行いを為している存在を馬鹿にする風潮にあるのは確かだが、廉恥心のある人間ならばそのような風潮を悲観こそすれ乗せられることはない。
だが、まんまとその風潮に乗り、それをそのまま吐露するオハラのような存在を起用している当番組担当者は番組意図を理解しているとは到底思えない。
つまりは世間的におためごかしで作成している番組であるという印象を与えるのだ。
せっかく番組自体は現代に警鐘を鳴らす意味で大切な問題提起をなし、高橋秀樹というきちんとした大人を配しているにもかかわらず、オハラの起用が全てを台無しにしているのだ。
その1点だけで番組担当者の本音が垣間見える。
つまり、エコや社会派を気取っても、結局はスポンサーから金が引き出しやすいからお題目として唱えているだけで、本当はそんなものに興味なんか無いという本音である。

オハラや小森純のような存在を見ていると、新約聖書に言うビーストやギデオンという言葉を思い出す。
ギデオン、数多きもの…なるほどああいったいわゆる正当なな教育(しつけ)を受けていない、人間以前の存在というものは、「人間」になれなかったものたちであり、実際そのようなものたちが思いのほか増えているという点でギデオンでありビーストであると感じる。
ここでいう「人間」とは「人の間=人間(じんかん)」に生きることを受け入れているものたち、つまり社会という組織を構成・維持する上でのルール=他人をおもんばかることの出来る を遵守するものたちという意味での「人間」である。
百姓(ひゃくせい)とはその名の通り、「百=多く」の「姓」を持つものたち、つまりは民=大衆という意味であるが、大衆がみなオハラのようなモノたちになるのであれば世の中お先真っ暗闇だ。
だが、いまやその危機は目前に迫っている。
今のTVを見ているとそのことがよく判る。