2010年2月25日木曜日

東京都民はかわいそうだなぁ

東京オリンピック招致委員会は、今回大きな赤字負債を作り出したにも拘らず、今後も解散せずに活動を続けるそうだ。
今回の赤字の主因はご多分に漏れず大手広告代理店(電通あたり)による過出費なのだが、今後の活動資金はその広告代理店からの借金によるという。
つまりは大手広告会社がプロミスやアコムなどと同様の金融業務を行って、都から毎年莫大な利子という、旨い飴玉をしゃぶらせてもらうという構図なのだろう。
もちろんそれにぶらさがっている賊議員の存在も忘れてはならない。
有名無実のオリンピック招致委員会なるものをわざわざ存続させるからには、相当な圧力があるのだろう。これが一般企業であれば、そんな大赤字を出しながら事業=招致に失敗した部署など、即解散、担当役員は降格処分または解雇というのが当たり前である。
なのに存続の上、今後もぬくぬくとサラリー(税金)を貰いながら、なおも借金を増やすために消費者金融(大手代理店)から借金を重ね、その利子は税金でという仕組みらしい。
昨今の不況で広告料による収益が見込めない今、こうした新手の吸血方法を生み出した広告代理店の手腕は流石といわざるを得ない。
代理店は実質なにもしないで右から左へ受け流すだけで旨い汁が吸い放題というわけだw
スポンサー(出資者)⇒代理店⇒クリエイター(労働者) この流れでいくらでも飴玉しゃぶり放題だw
まあこの場合のスポンサーというのが東京都、その原資は都民の税金、つまりは東京都民がうまいこと生き血を吸われ続けているという構図なのだろう。
つくづく東京都民はかわいそうである。

2010年2月23日火曜日

「全面禁煙を求める」と長妻大臣発言

不況だデフレだと言うわりに、酔っ払いにもキビシク、外で煙草も吸うな!なんて言ってたら、誰も外で遊ぼうとは考えないだろう。家に篭ってじっとしてるのが一番ということになる。
篭っていればお金も使わないで済むし経済である。今のご時世にはぴったりだw
今回の発言に、個人業主はこぞって「大手による独占を助長させる個人経営潰しだ」といきまいているが、そんなことは今にはじまったことじゃない。
昨今の時流はあきらかに戦前の財閥復活を目論んでのことだから、個人でいくら騒いでもなんにもならない。農業の大規模・工場化や製造業等の資金による一元化など枚挙にいとまはないだろう。

だいたい本気で国民の健康を考えての全面禁煙なら、そもそもタバコの製造・販売そのものをやめてしまえばいいのだ。売るだけ売っといて吸うなというのは、いかにもおかしい。
つまりは吸ってもいいけど選挙の手前これくらいはぶちあげておこうということなのだろうか?

もし本当に路上でも建物内でも喫煙不可ならば、もう喫煙可能な場所は我々庶民の生活圏には存在しないということになる。それこそ広大な敷地を持つ権力者の私有地内や公海上といった日本を離れた場所だけになってしまうだろう。
自宅でだけ吸えばいい、と思っているのなら、それこそヒッキーになれということだ。これは憲法違反である。隔離され外出を禁じられた身のどこに基本的人権・文化的生活が保障されるというのか。
尤もこのままだと自宅喫煙についても外へタバコのにおいがもれ出ただけで訴訟騒ぎになりそうだw
想像すると、かつてのアメリカの禁酒法時代のようにスピークイージーのような地下喫煙所が出来たり、個人輸入によるタバコの密輸喫煙などが出てきたりすると、ちょっと楽しい。
また、どうせ禁止薬物なのなら、この際麻薬でも…という輩も出てくるのは間違いない。

どうも今回の件は選挙目当てにしても行きすぎだろう。
これ以上我々大衆に閉塞感を与えて、この先何がやりたいのか?大衆に働く意欲を与えて国力を上げるためには、大きな娯楽や拝金主義などよりも、喫煙などのようなささやかな自由が必要ではないのだろうか?そしてそれを寛容できる公共性もまた必要ではないのか?人はパンのみにて生くるに非ず、の思想である。

2010年2月17日水曜日

口にものを入れたまましゃべるな!

最近のTVを見ていて、非常に見苦しい、思わず目をそむけてしまう瞬間がある。
それはリアルタイム番組では必ずある、余禄で食事をしている場面でのことなのだが、幇間やお笑い芸人ならまだしも、文化人気取りのコメンテーターや局アナまでが、食べてすぐ、まだ口の中に食べ物が入っている段階で口を開いて、口中のグロテスクな内容物を視聴者に見せてしまう瞬間である。
どんなにおしゃれをしていようと、どれだけ美人であろうと、百年の恋もいっぺんにさめてしまう瞬間である。
芸人ならばそのような下品さも下劣さも逆手に取り、皆に馬鹿にされ笑われることを、あえて提示することで銭を得る生業と為している社会的に下等な存在であるのだから、我慢は出来ないまでもまだしも納得は出来る。
それを女子アナまでが平気で行うのだ。
実に耐えられない。
思わず口中のゲロを見せ付けられているようで、こちらまで吐き気がする。
自分達が子供の頃は、口中にものを入れたままでけっしてしゃべってはならないと教育を受けたものである。ここでいう教育とは学校などでの知識教授のことではない。教育とは元来家庭で行われるものだからである。
さすがにそのような教育がきちんと出来ている年配の方や女優などは、口中のものを飲み下してから口を開いて感想を述べるが、中途半端なタレントやコメンテーターなど、躾けが不自由な人々は平気で口中のものを画面に映し出して見せる。これはもちろん現場のディレクターにも問題はあろうが、なによりこのような下品な画面を見せられて抗議をしない我々国民にも大いに問題はあるだろう。だが、そのような国民を生み出し続けているのが現在のTV番組であることをこそ、各局のTVマンたち(NHKを除く=さすがにNHKの職員はそのような下劣な行為は未だタブーとされているようで安心だ)は自覚しなければならない。目先の欲に駆られて民度を下げているという自覚をだ。
「鶏と卵どちらが先か」ではないが、TVの与える影響力というものを、もっと真剣に考えて欲しい。いかに家庭教育がきちんとしていようと、TVで与えられる情報に子供たち(精神的な存在も含む)は簡単に感化されてしまうのだ。ローリングストーンという言葉がある。イージーゴーイングという言葉もある。人は誰しも楽な方へ流れていくものである。それをくい止めるモノ、くい止める努力を為すことが文化であり、人が精神的にも高次の動物であることを証明する唯一の手段でもあるのだ。
それを放棄することは人間であることを止め、獣に戻ることを意味する。

2010年2月10日水曜日

「心にのこる日本の歌」

似非(エセ)が増えたな~

と単純に思う。学者にしろ弁護士にしろ最近のバラエティに出ている人間たちは、本当に肩書き通りの人間なのか非常に疑問に思えてしまう。ニュースにしてもそうだ。およそ文化人(死語)とは思えない自称ジャーナリスト、自称アナリストといったコメンテーターが多すぎる。
彼らには、まず肩書きに見合ったイーソス=品格というものが感じられない。代表者として山崎方正と顔も性格も同じようなくだらなさの弁護士とか…底が浅すぎてカメラに写っている時と写っていない時のギャップが激しい状態が容易に想像出来てしまう品性下劣な人物が多すぎる。
特に心理カウンセラーを名乗る輩など、資格不要の職業なので誰でも名乗ることができるから、自称詐称の有象無象ばかりに見えて仕方がない。今TVに出ている人間で信用できるのは、クオリア研究などで一部に有名な脳科学者の茂木さんくらいであろう。
考えて見れば品性があればTVなどは出演を見合わせる感覚を持っているはずだから、まあ、元からコメンテーターなどを引き受ける人間など信用する必要はないのかも知れない。
それにつけても今のTVは、開き直って「俺(私)は下品だよw」と己の下劣さを自慢するような人間を、ことさら強調し、巷間に下劣な人間達を増やす努力を続けているように見えて仕方がない。下品さのインフレーションとでも言えばいいのだろうか。もっと下品にさらに下品にという一種のダウンスパイラルに陥っているようだ。特に小森純なるモデル?の存在はその焦眉であろう。
そんな番組や芸人・コメンテーターたちを見て育った子供たちに、我々は老後の面倒を見て貰わねばならないのかと思うと、もはや不安などでなく、絶望に近い諦めしか持てない。
きっとそんな子供たちは「時計仕掛けのオレンジ」のように。

別の例としては元全学連活動家(かつてガチャ目だったのは機動隊員の暴行による障害)のアジテーターリーダー・テリー伊藤などのようにアナーキズムを標榜する輩は、世の中を混沌となすために、わざと文化の質や権威を落とさしめ、さらに過激にさらに下品な世の中にするべく工作を行っている場合もあるが、これはテリー氏の思想の元に行われている運動なので、共感は出来ないが一定の理解は出来る。昨今転向した気配も見受けられるようだが、氏の本質は死んでも変わることはないだろう。

そういえば昔、心に残る日本の歌という番組を見ていて、漠然と「今は似非ばっかりだな…」と思ったことを思い出した。

80年代という特殊な時代はバブルやイデオロギー主義の消滅など、構造的に何かが大きく変化した時代であった。そのことが「本物」を追い出し「似非」の隆盛を招いた一因であることは間違いないだろう。「悪貨は良貨を駆逐する」けだし真理であろう。
キャンディーズらピンでは下手すぎてボロが出るのでグループで…という連中が出てきた時に感じた危機感が、現実になったのが80年代と言い換えてもよいかもしれない。
70年代フォーク世代の挫折と自暴自棄とも思える、投げやりな金・権力への擦寄りが生みだした様式が確立した80年代という時代…その萌芽は70年代に出てきた天地真理・浅田美代子や、田原俊彦らジャニーズの登場に象徴を見ることができよう。
いわゆる本物よりも華美な似非を好む文化の台頭である。

昔、聖徳太子の存在を否定した津田左右吉という歴史学者がいた。彼の説を大雑把に要約すれば、歴史上厩戸王子と呼ばれた人間は、居たのかも知れないが、十八条憲法制定などの偉業を成した、国民誰もが知っている聖徳太子というような人物は存在しない。彼は当時の権力者たちによって造られた、架空の人物像であるということになるだろうか。国家で成した業績を、まとめて1人の人物に集約することで、聖徳太子というヒーローを作り出す必要があった人々による、想像上の人物像であろうという説である。考え方としては、現代社会でも事業の成功や大学の研究成果などが、1人のリーダー・学者の功績のように扱われていることを卑近な例として挙げられるかもしれない。

だが、そのような通俗な価値観で計ること自体が問題ではないのか?
大事なのは「聖徳太子」を生み出した精神なのである。
聖徳太子のような存在は、ひとつの理念なのである。道標といいかえてもいい。コロンブスの卵の例を持ち出すまでもなく、それなくしては成り得なかった、目には見えず形も残らない、だが確実に将来へ影響を残すであろう「思考=考え方」そのものが重要なのである。
ゆえに津田氏の説に触れた時、私には理解も容認も出来なかった。もちろん津田氏の生きた時代性ということもあろう。当時軍部が富国強兵を進める上で、聖徳太子や二宮金次郎などを広告塔に使用したことに対するアンチテーゼという背景もあったのだろう。だが、それでもなお聖徳太子を否定したことは、偉人伝にケチを付けて地位を引き摺り下ろそうとする、氏のルサンチマンの発露に思えて仕方がないのだ。
もちろん、氏の功績は記紀の研究方法の手法や検証方法が、現代の歴史学の検証方法などに受け継がれていることを見てもわかる通り、りっぱであったのだろう。だが私は津田氏の書物もウルトラマンが科学的に実在出来ないとする冗談科学論も、「猪口才」という点で同じもののように思えて仕方がないのである。

偉人伝は必要である。
勝海舟も回顧録の中で、思春期・青年期に異性が気になり我慢出来難い時には、スポーツで健康的な汗をかき、偉人伝を読むことで青雲の志を奮い起こした、というエピソードを語っている。
人間が健全な社会という契約世界を維持し続けられるかどうかの鍵を、見事に物語っている名エピソードである。品格というものはまさにこのような精神から生まれて来るものであるのだろう。
偉人の業績を素直に受け止めるられるか否かは、「本物」を認められるかどうか、その人間の精神の在り様に依存しているからだ。
「本物」を認めるには肉体とともに精神が健全であり心が強健であるという条件を満たさねばならない。そうでなければ、己の中のルサンチマンを抑えることが出来ないからだ。そういった修養が出来てない惰弱な精神では、「本物」の持つ迫力に耐えられないのだ。ちょうど訓練を積まずにいきなりプロスポーツが不可能であることと同じだ。肉体同様、心も鍛えぬかなければ本物の持つ重みを受け止め支えることは出来ない。へたに手を出せば、その心はポッキリ折れてしまうだろう。だから昔から「本物(の運動の場)」には近づくな!近づくにはそれなりの準備が必要である!という教えなり教育なりが行われていたのだ。
「健全な精神よ、健全な肉体に宿れかし」
それをなおざりにし、自由と我儘を同義語と勘違いした世代の台頭によって、やがて日本の文化は崩壊してゆくのだが。その発端が80年代に垣間見えたのが「心にのこる日本の歌」という番組によってであったのだ。
番組に登場する本物の歌手たちの朗々と歌い上げる姿を見るにつけて、「正しい精神の鍛え方」という伝承が断絶した=終わったのが、まさに80年代であったのだなあ、と考えた次第である。

2010年2月7日日曜日

「マスコミ」と「事実」は違う

至極名言である。
本日もさまざまな番組でいろいろなことをMCやコメンテーターが我儘に(自由にではない)発言しているが、聞けば聞くほど見苦しい。
その中で一服の清涼剤となった発言が「マスコミ(という存在のなかで発信される文言)と事実(である出来事)は違うものである」という定理である。
これは正しい。どの番組も番組である以上、必要以上に恣意的である。それはCMに代表されるようなイメージ戦略を使用しての、世論の情報操作であったり大衆誘導であったりさまざまだが、ゆえに語られていないことのなかにこそ真実はある。
TVで発信されるような物事には、なんの真実もない、酒場での与太話に等しい。その程度のことであるということだ。
TVにジャーナリズムが存在するという幻想は、過去にはあっても現在にはない。
特に坂本弁護士一家殺人のための個人情報をオウムにリークしたTBSや、さんご礁を自ら破壊し、ダイバーのモラルの低下を訴えた朝日などは信用ならないTV局の大代表だろう。
しかし民間企業である以上それは当たり前のことである。権力におもねり、スポンサー(金力)に尻尾を振らないでTV局の生存はないからだ。
別の見方をすればスポンサーという企業の在り様が社会を形成し、代表的世論にも為り得ることを考えれば、少なくともスポンサーの方を向いているうちは、畢竟我々大衆の方を向いているということになるともいえる。

許せないのはNHKであろう。国民から視聴料という名の税金を毟り取り乍、なにゆえに中立を保てないのか。一部宗教団体・圧力団体におびえてでもいるのか?と思いたくなる報道も散見される。しかも最近はCMの量が増えすぎてとても見づらい。ここでいうCMとは自社制作番組の宣伝CMのことである。酷いときは5分以上もCMを連続で流し続けていたりする。いい加減にしろ!といいたい。NHKは唯一の美点は、くだらない商業CMを見なくて済む、という1点のみにつきるからだ。なのに自社制作番組CMをダラダラと垂れ流しされたのではなんの意味もない。金返せ!といいたくなる。

所詮お茶の間のにぎやかしでしかないTVという存在そのものをニュースソースとするような人間は、程度が知れているということなのか。己の目で見、己の耳で聞いて判断する訓練を積め!TV報道の裏側を類推し、クオリアのようなものを会得する訓練を積め!ということなのかもしれない。

ところでふと素朴に思ったのだが、今の自民党総裁や議員らがTVカメラに向かって愚痴っていることは、いったい誰に向けて発信しているのだろう?どう聞いてみても自民党内部の過去の汚点を自分の口から論っているようにしか聞こえないのだがw
考えて見れば鈴木ムネオも田中真紀子も小沢幹事長も、皆自民党のど真ん中に居た人たちではあるww

2010年2月4日木曜日

心が和む喜八映画 ♪

TVがつまらなすぎてしょうがないので、岡本喜八の映画を連続で見ている。
やっぱり喜八はいいなぁ~。心が洗われるようだw
スカパー様々というところだ。
今回は未見だった映画が何本も見られて実によい^^v
もともと岸田森が大好きで、その昔出演作を探しては見た中にあった「ダイナマイトどんどん」以降、すっかり喜八に嵌ってしまったのだ。
世の中の不条理に心が折れそうになったときは、喜八に限る。なによりの特効薬だw
まさにエンターテインメントというものの存在がここにある。
「地獄の饗宴」や「顔役暁に死す」などを見ていると、松田優作の角川映画は喜八のオマージュであったことがよくわかる。洒落が効いている分、喜八の方が上等であるw
さあ、また見ようww

2010年2月2日火曜日

ポストモダン?ww

政権交代・日航倒産・百貨店退却・Ipad・アバター・貴乃花理事選勝利…
慌てうろたえた口ぶりでいろいろな出来事をTVニュースでは伝えているが、これは文化の世代交代が完全に成し遂げられようとしている現れではないだろうか?
それもただの世代交代ではない。
精神の大きな変革がまさに2010年の今起こりつつあるのではなかろうか?
昭和はバブル崩壊とともに終わったと思っていたが、完全なる終焉が今なのかも知れない。
それは権力構造にも集金システムにも大きな変革をもたらすだろう。
もう、みの〇んたの時代ではないのだ。
日和見主義で「権力におもねろ!」と叫んでいる、みの世代の時代ではなくなったのだ。
この現象は喜ぶべきことだと思う。そして悲観もしなくていい。人に必要なものはいつの時代にも必ず残されてきた。
そう、どんな時代でもエポックは残る。良し悪しではない。それが古典というものになるのだから。
ならばこれからもエポックを創造できるよう修練すればよいだけのことだ。
硬直したモダニズムはちょうど衣替えの時期に来ているのだ。
衣替えの時期に変えられなかったものは笑いものになるだけである。
メディアもそうなのであろう。いま、まさに新聞・TVというメディアが生き残れるかどうか勝負の時が来ていると思う。