2010年2月10日水曜日

「心にのこる日本の歌」

似非(エセ)が増えたな~

と単純に思う。学者にしろ弁護士にしろ最近のバラエティに出ている人間たちは、本当に肩書き通りの人間なのか非常に疑問に思えてしまう。ニュースにしてもそうだ。およそ文化人(死語)とは思えない自称ジャーナリスト、自称アナリストといったコメンテーターが多すぎる。
彼らには、まず肩書きに見合ったイーソス=品格というものが感じられない。代表者として山崎方正と顔も性格も同じようなくだらなさの弁護士とか…底が浅すぎてカメラに写っている時と写っていない時のギャップが激しい状態が容易に想像出来てしまう品性下劣な人物が多すぎる。
特に心理カウンセラーを名乗る輩など、資格不要の職業なので誰でも名乗ることができるから、自称詐称の有象無象ばかりに見えて仕方がない。今TVに出ている人間で信用できるのは、クオリア研究などで一部に有名な脳科学者の茂木さんくらいであろう。
考えて見れば品性があればTVなどは出演を見合わせる感覚を持っているはずだから、まあ、元からコメンテーターなどを引き受ける人間など信用する必要はないのかも知れない。
それにつけても今のTVは、開き直って「俺(私)は下品だよw」と己の下劣さを自慢するような人間を、ことさら強調し、巷間に下劣な人間達を増やす努力を続けているように見えて仕方がない。下品さのインフレーションとでも言えばいいのだろうか。もっと下品にさらに下品にという一種のダウンスパイラルに陥っているようだ。特に小森純なるモデル?の存在はその焦眉であろう。
そんな番組や芸人・コメンテーターたちを見て育った子供たちに、我々は老後の面倒を見て貰わねばならないのかと思うと、もはや不安などでなく、絶望に近い諦めしか持てない。
きっとそんな子供たちは「時計仕掛けのオレンジ」のように。

別の例としては元全学連活動家(かつてガチャ目だったのは機動隊員の暴行による障害)のアジテーターリーダー・テリー伊藤などのようにアナーキズムを標榜する輩は、世の中を混沌となすために、わざと文化の質や権威を落とさしめ、さらに過激にさらに下品な世の中にするべく工作を行っている場合もあるが、これはテリー氏の思想の元に行われている運動なので、共感は出来ないが一定の理解は出来る。昨今転向した気配も見受けられるようだが、氏の本質は死んでも変わることはないだろう。

そういえば昔、心に残る日本の歌という番組を見ていて、漠然と「今は似非ばっかりだな…」と思ったことを思い出した。

80年代という特殊な時代はバブルやイデオロギー主義の消滅など、構造的に何かが大きく変化した時代であった。そのことが「本物」を追い出し「似非」の隆盛を招いた一因であることは間違いないだろう。「悪貨は良貨を駆逐する」けだし真理であろう。
キャンディーズらピンでは下手すぎてボロが出るのでグループで…という連中が出てきた時に感じた危機感が、現実になったのが80年代と言い換えてもよいかもしれない。
70年代フォーク世代の挫折と自暴自棄とも思える、投げやりな金・権力への擦寄りが生みだした様式が確立した80年代という時代…その萌芽は70年代に出てきた天地真理・浅田美代子や、田原俊彦らジャニーズの登場に象徴を見ることができよう。
いわゆる本物よりも華美な似非を好む文化の台頭である。

昔、聖徳太子の存在を否定した津田左右吉という歴史学者がいた。彼の説を大雑把に要約すれば、歴史上厩戸王子と呼ばれた人間は、居たのかも知れないが、十八条憲法制定などの偉業を成した、国民誰もが知っている聖徳太子というような人物は存在しない。彼は当時の権力者たちによって造られた、架空の人物像であるということになるだろうか。国家で成した業績を、まとめて1人の人物に集約することで、聖徳太子というヒーローを作り出す必要があった人々による、想像上の人物像であろうという説である。考え方としては、現代社会でも事業の成功や大学の研究成果などが、1人のリーダー・学者の功績のように扱われていることを卑近な例として挙げられるかもしれない。

だが、そのような通俗な価値観で計ること自体が問題ではないのか?
大事なのは「聖徳太子」を生み出した精神なのである。
聖徳太子のような存在は、ひとつの理念なのである。道標といいかえてもいい。コロンブスの卵の例を持ち出すまでもなく、それなくしては成り得なかった、目には見えず形も残らない、だが確実に将来へ影響を残すであろう「思考=考え方」そのものが重要なのである。
ゆえに津田氏の説に触れた時、私には理解も容認も出来なかった。もちろん津田氏の生きた時代性ということもあろう。当時軍部が富国強兵を進める上で、聖徳太子や二宮金次郎などを広告塔に使用したことに対するアンチテーゼという背景もあったのだろう。だが、それでもなお聖徳太子を否定したことは、偉人伝にケチを付けて地位を引き摺り下ろそうとする、氏のルサンチマンの発露に思えて仕方がないのだ。
もちろん、氏の功績は記紀の研究方法の手法や検証方法が、現代の歴史学の検証方法などに受け継がれていることを見てもわかる通り、りっぱであったのだろう。だが私は津田氏の書物もウルトラマンが科学的に実在出来ないとする冗談科学論も、「猪口才」という点で同じもののように思えて仕方がないのである。

偉人伝は必要である。
勝海舟も回顧録の中で、思春期・青年期に異性が気になり我慢出来難い時には、スポーツで健康的な汗をかき、偉人伝を読むことで青雲の志を奮い起こした、というエピソードを語っている。
人間が健全な社会という契約世界を維持し続けられるかどうかの鍵を、見事に物語っている名エピソードである。品格というものはまさにこのような精神から生まれて来るものであるのだろう。
偉人の業績を素直に受け止めるられるか否かは、「本物」を認められるかどうか、その人間の精神の在り様に依存しているからだ。
「本物」を認めるには肉体とともに精神が健全であり心が強健であるという条件を満たさねばならない。そうでなければ、己の中のルサンチマンを抑えることが出来ないからだ。そういった修養が出来てない惰弱な精神では、「本物」の持つ迫力に耐えられないのだ。ちょうど訓練を積まずにいきなりプロスポーツが不可能であることと同じだ。肉体同様、心も鍛えぬかなければ本物の持つ重みを受け止め支えることは出来ない。へたに手を出せば、その心はポッキリ折れてしまうだろう。だから昔から「本物(の運動の場)」には近づくな!近づくにはそれなりの準備が必要である!という教えなり教育なりが行われていたのだ。
「健全な精神よ、健全な肉体に宿れかし」
それをなおざりにし、自由と我儘を同義語と勘違いした世代の台頭によって、やがて日本の文化は崩壊してゆくのだが。その発端が80年代に垣間見えたのが「心にのこる日本の歌」という番組によってであったのだ。
番組に登場する本物の歌手たちの朗々と歌い上げる姿を見るにつけて、「正しい精神の鍛え方」という伝承が断絶した=終わったのが、まさに80年代であったのだなあ、と考えた次第である。

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