2010年1月28日木曜日

いじめ国会

ニュースを見ていて本当にがっかりした
いま国会で何をやっているかというと国民をなおざりにひたすら自民党らによる民主叩きである。
もちろん政敵を完膚なきまでにやっつけるというのは、権力争奪合戦である以上仕方がないのかもしれない。
だが、あまりに品位がなさすぎる。
やじに対して「うるさい」と一喝して何が悪いのか。夫人がイベントに出席して何がいけないのか。
会議中にあくびをしたことをことさらあげつらって非難することに何の意味があるのか。
今の国会を見ていると、すでに学級崩壊ならぬ国会崩壊を起こしているのではないのか。

さらにその崩壊現象に加担しているマスコミの責任は政治家以上だろう。
今のニュースで捏造まがいの洗脳誘導をしているマスコミの連中は今後日本の10年間にたいしてどれほどの責任を取るつもりなのだろう。
否、責任感などまったくないに違いない。
そうでなければこれほど展望のない報道はしないだろうから。
結局目先の欲に駆られて大勢を俯瞰できない連中がやることだ。
津田左右吉の呪いでもあるまいに、日本式文化大革命の成果を今更ながらに見る思いで歯がゆいばかりだ。

2010年1月26日火曜日

言論の自由

今の日本に言論の自由はあるか?

TVには無い
新聞にも無い
ネットにはところによって少しだけある

ちょっとだけ仏風にしゃれてみたw

上手下手

ニュースや国会中継を見ていて、ふと疑問が持ち上がった。

いつから野党を上手(かみて)で撮るようになったのだろう?
今までは与党が上手、野党は下手(しもて)であったと思ったが…
劇・映画などの基本になるが、撮影するときには正義側・権力側を上手で撮影するものである。
昨今基本を忠実に守るカメラマンも少なくなったが、国会中継などはカメラの配置位置は決まっているのではないだろうか。であれば与党は右(上手)、野党は左(下手)というように配置されていてしかるべきだと思うのだが。それとも自由にカメラを設置できるのであろうか?

以前は必ず与党(自民党)が上手で撮られていたように思う。
それが民主党になってから、いや恐らく今年の本国会からであろうが、なぜ与党が下手(弱者的ポジション)撮りになったのだろう?
サブリミナルなどというはるか昔に否定されたカビの生えた迷信を持ち出す気はないが、右利きの多い世間では上手・下手の理論は実際に有効である。
それがわかっているうえでの今回のカメラ位置変更なのだろうことは容易に想像できる。

もしもこの裏に大きな力が動いているのだとしたら…
マスコミ・メディアはすでに政治以上の大きな力に支配され済みなのだとしたら…

なんだか本気で怖くなってきた。

2010年1月22日金曜日

可視化法案

この法案は、可及的速やかに出来るだけ速く可決したほうが良いに決まっている。

一日遅れれば遅れるだけ、どこかで誰かが冤罪に苦しまないと限らないではないか。

それなのにニュースなどで「先延ばしするべきだ」などとのたまっているコメンテーターを見ると、一体何を考えているのか?と大いに疑問に感じる。

法案が可決すると困ることがあるのだろうか?

もちろん警察・検察といった力を行使する側が困るのはわかる。もっとも正々堂々誰にも羞じることなく取調べを行っていれば、なんら困ることはないと思うのだが。

もちろん悪に対抗するには悪で立ち向かわねばならないケースだってあるだろう。
そしてその必要悪を攻撃する勢力もあることは皆知っている。

だが、それが正しい行為、しかるべき行為であるならば、民衆は支持こそすれ反対するものなど1人もいないだろう。反対するのはそれで利益を得る圧力団体や、組織的暴力で生業を為すものたちだけであるからだ。

にも関わらず、可視化法案早期可決に反対するコメンテーターたち…

今、民衆は政治不信よりもマスコミ不信に陥っている。

それがマスコミが思ったよりも、大衆が小沢問題で盛り上がらない原因なのだ。

マスコミは小沢祭りや民主党叩き祭りに火を点けたいのだろうが、もう我々はマスコミのそういった手口にウンザリしている。

そんなことよりも目の前の生活を、明日食べるための米を求めているのだ。我々が欲するのはそういう情報なのだ。どこへいったら働けるのか?どこにいったら飢え死にしないですむのか?

だが、そういう不安をまったく持たないでよい安定したサラリー暮らしのくせに、したり顔で声高に政局を混乱させたがるアナウンサーやコメンテーターたち。

マスコミはこの疑問に答えられるのか?一体誰のためのマスコミなのか?誰の権利を守るためのジャーナリズムなのか?

今、民衆は冷静な視線をTVやマスコミに向けている。

2010年1月21日木曜日

馬鹿を見る

かつて中国の権力者が、己に味方するものを選別するために行った故事に由来する「馬鹿」という言葉がある。

皇帝の面前に居並ぶ高官たちの前に一頭の鹿を引き出し「陛下、献上された馬で御座います」と口上を述べた。当然皇帝は「これは鹿ではないか?」と聞き返す。そこで周りの高官たち一人一人に馬か鹿かと答えさせ、「馬」と答えたものは重用し、「鹿」と答えたものは左遷や暗殺を行ったという。

今回小沢氏の土地購入問題に関する一連のニュース報道や番組MC、コメンテーターの意見を聞いていて、漠然とこの故事を思い出したのは私1人ではないだろう。

小沢氏側が清廉潔白などとは民衆もとうてい思ってはいないだろう。清廉潔白であったばかりに推挙した弟子を若死にさせてしまった孔子の言葉を思い出すまでもなく、清廉潔白では政治家を続けていくことは不可能であろうことは容易に想像がつくからだ。

しかし、民衆が望んでいることは世の中の安定である。盗殺に頼らないでも生きていける社会の構築である。

多少の悪ではあっても、世の中の安寧のためには必要な悪もあるという事実はみな理解しているのだ。だが、一方ルサンチマンも持ち合わせている。そこを煽り誘導支配していく手段がメディア戦略である。

まさにその戦略がここまであからさまに使用されている現在のTVの現状をどう見ればよいのだろう。

バブル以降、ジャーナリズムの精神や中立性・反骨精神といわれるものがどんどん失われている現実。このまま進んだ結果、この国がどのように変容していくのか。

ふと視点を変えれば面白い時代に生まれてきたともいえるかもしれないw

まさに平安末期、江戸末期、そして大正末期のようでもある。

2010年1月18日月曜日

昨今のニュースを見るだに考える

アメリカも中国も徐々に立ち直りかけている状況で、日本だけが不況から脱することは出来ないだろう。


このような状況下で自民も民主もないだろう。政治家は一丸になって日本を浮上させるために頑張らねば、政治家としての意味はないのではないか?

それを自民は過去の集金システムの復活を夢見て、民主の足を引っ張るばかり、財界も権力を行使して格差を埋める努力を水泡に帰そうと、あの手この手で絡めてくる。

誰も5年後、10年後の日本を考えていない。

これでは諸外国に遅れを取るのは必至であろう。

権力者同士の争いで不幸な目に合うのはいつでも民衆である。だが今は戦国時代でも応仁の乱でもないではないか。

検察だって人間である以上、自分達の暮らしを第一に考えるのは当然であるし、仕方がないことなのかもしれない。

だが、もう一度大きな視野で、今後の日本のために、今何をなすべきか、なにをなさざるべきかを考えて欲しい。

正義は遠まわしに婉曲に行われなければならない。そうでなければ、それは正義ではなくなるからだ。

こんな基本も判らない分別を失くした人間が検察のトップに居るのであれば、その人にこそご退陣願いたいものである。

2010年1月17日日曜日

田原のしっぽが見えてきた

言論誘導のよりどころが読売・毎日・朝日新聞の記事からというところが、まさに象徴的である。


TVもそうだがこの3社は去年の選挙前から民主党批判を繰り返してきたところばかりだ。

警察も検察も権力者サイドの守り手であるのは当然である。ならば現在の真の権力者は誰か?あるいはどこか?という疑問が出てくる。

そういうことを考えさせるほど今のマスコミや検察の動きはおかしい。

政治は必要悪である。民主党も叩けば多少の埃は出るだろう。だが、それ以上に自民の方が埃は山のようにあるはずだ。

なのに民主ばかりを目の敵にする理由はどこにあるのか。

我々民衆はそこを見極めなければならない。そうしないとかつての大政翼賛会のように情報操作でいいように操られていくだけである。

それでもいいよ。だってめんどくさいじゃん。

そう考える人々もいるだろう。いや、そう考えるように教育・誘導するこそことが為政者が長年研究してきた大衆操作の最終目標であるのかも知れない。

メディアはそのための武器であるのだから。

2010年1月8日金曜日

たけしのにっぽんのみかた

「夜ぐっすり眠れるのは、誰かが守ってくれているからだ」 ショーペンハウエル

その手法で言うならば
「米を作ってもいないのに米が食えるのは、誰かが米をつくってくれているからだ」
となる。同じように、
「牛を飼ってもいないのに牛乳が飲めるのも肉が食えるのも、誰かが牛を飼ってくれているから」
であるし、魚にしても野菜にしても、はたまたこのブログにしてもそうだ
そして何物をも生み出さず、貪欲に浪費するだけの人間はまたこういうかもしれない
「モノをつくっていられるのは、誰かがソレを浪費してくれるからだ」と
しかし、それは欺瞞である。モノ作りを瞞着する老獪な罠である。
浪費は罪悪でしかない
ここでいう「浪費」とは己の肉体や精神の必要最低限の糧以上に消費する行為を言う。
消費する行為自体が罪悪と言ってもいいかも知れない。
アイヌのイヨマンテに代表される消費の際の祭りやクリスチャニティに言うところの「原罪」思想である。
今でも他者の生命を奪ってしか生きることのできない我々は、食材に対する感謝の念で「(あなたの命を)いただきます」の精神で食事をしている。
その精神があれば浪費はしない。当たり前のことである。
浪費は原罪(消費)以上に罪を重ねる大悪であるからだ。
それが己の才覚で得られるもの以上のモノを消費しているのであればなおさらだ。
その分別を持てるようになってはじめて「大人」と呼ばれるようになる。
「大人」とは一種の身分であって、年齢を経れば得られるものではない。
身分相応の考え方・精神を得るための、努力や才能が必要なのである。
今日の番組はそのことをより印象付けるための一種の警鐘番組であったのだろう。
たんなる世代間抗争の結果であってよいはずはない。
そう信じなければお先真っ暗ではないか…

2010年1月7日木曜日

2022

人類は3種に分類されるようになった。いわくS(サイボーグ)・BS(バイオサイボーグ)・N(ナチュラル)である。

致死(キラー)遺伝子の解析によるバイオファージ医療の進化により、相応の資金があれば人はその寿命を3倍に延ばすことに成功したからだ
すでに21世紀初頭においても一部利用されていた技術により先駆となった人物もいた
Sの代表には、故マイケル
BSの代表には、桃井・BS・かおり がいる
S・BSともに莫大な費用が必要なため、数は限られる
尚、整形に関してはいまだに議論が分かれる
整形の中でも外部部品を使用した場合はSに入るが、自己遺伝子によるクローン部品を含むか含まないかで意見が2分されているためである

2010年1月4日月曜日

カンブリア宮殿はおもしろい

今日の小沢一郎は面白かった。
どの局も民主叩きや小沢叩きに汲々としている中、これほどストレートに小沢一郎を紹介した番組はなかったのではないだろうか。

横道に反れるが、昨今、制作現場では創価学会による統一・統制が着々と進められてきた経緯がある。実際芸能界やTV業界において、学会員でない人間を探す方が難しい。すでにアニメ業界ではほぼ創価による統制は終盤にさしかかりつつあり、これは(創価学会員の)スポンサーからの指示もあるが、学会員でない監督や演出家といったトップの追い出しに、ほぼ成功しているという現実があるからだ。その結果素人同然の監督や演出が増加し、いまやアニメは見る影もなくクオリティは低下しまくっている。
創価の作戦は大学などで青年同盟が行うのと同じ手法が取られている。まず、創価関係の息がかかったスポンサー等の要求で、実績がないものがいきなり監督やPに登用されたかと思うと、登用された人物がその仲間達を現場に次々と参入させて、占拠する会社なり現場での昔からの実力者を追い出して学会員でトップを固めて行くのだ。ひとつの会社の制圧が終了すると、また別の会社へ移籍して同じことを繰り返す。そうして気が付くと学会員でないものは誰もいなくなるという仕掛けである。もちろん社内が全員そうというわけではない。そういう会社も存在するが、大概はPや監督・演出といった制作現場を仕切るトップが学会員に占められているということだ。

まあ本題はそのことではなく、小池栄子(創価学会員)をアシスタントにして、メーソンリーである(と噂の)小沢一郎とリベラルな村上龍との対談が、絵としても内容としても実に面白く有意義であったということである。
日本TVや毎日放送、TV朝日などではまず不可能であろう番組内容であった。東京12チャンネルが、ますます謎な存在になってしまったw