2009年10月28日水曜日

お茶の間じゃないんだから

ニュースバラエティ番組を見ていていつもうんざりするのは、視聴者をなおざりにしてスタジオ内だけで盛り上がる様子が流れる時だ。めいめいが勝手気ままにしゃべりたいようにしゃべっている様子は、まるで見知らぬ他人のお茶の間に紛れ込んでしまったのかと思わされるくらい非常な疎外感を受けることがある。どんな重要なニュースを取り扱っていても、そんな調子で置き去りにされた瞬間、ニュースそのものにも興味を失ってしまう。作戦なのか?と疑うが、NHKとテレビ東京以外どの局でも大なり小なりその傾向があるので、どうやら時代がそういうことらしい。そういうべちゃべちゃな関係を保つことがこの時代に社会で生きる条件なのかも知れない。

ところで孫良氏がやってる「漫画の新聞」は怪しい。新手のプロパガンダなのか?
これから要ヲチかも。
全般に政治や権力に対して反骨ぶりを発揮するのなら良いが、特定の政権のみを攻撃したり、身びいきしたりしはじめたら要注意だろう。名前からしても帰化系らしいし。

2009年10月8日木曜日

栗塚旭はやっぱりいいなぁ

録り溜めていた「新撰組血風録」を見た。いやはやスゴイの一言に尽きる。
この時代は脚本といいカメラといい演出といい、役者も作り手もプロフェッショナル過ぎて見ていて唸るばかりである。かてて加えて役者も皆清清しく見ていて実に気持ちが良い。
概して70年代末までのTV番組は今見ても充分面白く、尊敬に値する。現在の一部ドラマのような意味のないカット割りもワークも無駄な自己主張も自己弁護も嫌味もケレン味もなく、なにより娯楽に徹しきっており安心して見ることが出来る。娯楽と一口に言うが、本物の娯楽というものは一口では説明できないくらい奥深い。やはり基本はフィックスのレイアウト力に尽きる。この番組のような本物を見ることでそれが判る。

それにつけても思われるのは、どうして今このような素晴らしい番組が作られなくなったのだろうということだ。原因はいろいろ挙げられるが、一番はやはり一部の政治家同様、仮託された金力や権力を自らのものと勘違いした裏方のせいだろう。真面目にもの作りに頭を使うことを放棄し、遊びばかりに労力を費やした結果、まともなものが作れなくなったのだ。そういう先輩を見て育った後輩がより悪くはなっても良くなるわけがない。しかも予算の大半を人に使わず自らの遊興費に充てるPまで居るとなれば、これはもはや期待するだけ無駄というものなのかもしれない。

「ら」抜き言葉

「ら」抜き言葉をTVで聞くようになって久しいが、このような現象が現れて10~20年ほど経ったであろうか。個人的には違和感を感じるものの言葉は生き物であると考え、他人が話す(と言っても私の知人達はら抜きで話す人が居ないのでTV以外では聞いたことがないが)のには今までそれほど気にならないでいた。

だが本日TVを見ていて、俳優のウルトラマンつるの氏が「(外人牧師が)英語でしゃべられたのですが」を「英語でしゃべれたのですが」と「ら」抜きで話しているのを聞いて驚愕したのだ。つるの氏の場合二重に間違ってはいるが、問題はつるの氏のような若者らが「ら」抜き言葉を使っているうちに、「ら」が発音出来ない、または認識出来なくなっているのではないか?ということだ。他人が正しい日本語を発声しても聞こえない、つまり音が耳に入っても脳が理解出来ないつくりになってしまっているのではないかと、ふと考えてしまったのだ。ちょうど本来の韓国人が語頭のR音を認識しないことのようにである。(※1)
この問題は、今後敬語そのものも消えて行く可能性さえ秘めている。日本語がその多様な表現方法を失い、語彙の少ない単純な言葉になっていくという可能性だ。かつて昭和35年の文化大革命的改定により当用漢字は僅か三千五百程度にされてしまった経緯がある。本来使用されていた漢字が三~四万ほどあることを考えるといきなり10分の1になってしまったのだ。その僅かな漢字さえも今時は私も含めどれだけの人が使うことが出来るだろう。

漢字というものは表意文字である。ためにひとつの漢字を学ぶには、その字が持つ成り立ちとそれにまつわる歴史、そこから導きだされる正しい使用法を学ばねばならない。ゆえに「字」を知るものは本来「読書人」(日本語でいうところの所謂インテリ)と呼ばれ、尊敬されたのである。
まあそこまで行く必要はないが、せめて社会人としての言葉のけじめは必要ではないかと思うのだ。

敬語や謙譲語というのは「礼」の表れである。つまり相手に感じている自身の想いを伝える行為である。蛇足だが「上礼に返礼なし」という言葉がある。本当の「礼」とは相手の見返りやリアクションを期待して行うものではなく、自身の想いを現す行動の謂いであるため、それを受ける相手の(する)ことは、自分が礼を行うということとは関係がないということを、知るということである。ゆえに返礼が欲しければ相手への感謝の念、尊敬の念が伝わるまでさらに礼を尽くすのみであるという教えである。そのような「礼」を行うことで己の人間関係に一定のルールを設けることを「義」という。(※2)だから本来の「礼」を知る人間はおざなりに人に頭を下げたりしない。心にもないのに礼を行うフリ(似非)が出来るのは、利に聡い商人だけである。

まあ今時は目上の人間に平気でタメ口を利く様子をTVで計画的に流しているのを見ると、日教組がかつて狙った?通りに日本人改造計画は進んでいるのだろう(藁)ゆえにこの「ら」抜き言葉にはじまる語彙減少も予定通りなのかも知れない。こうして人間も単純化したほうが支配しやすいということか?

※1
李さんが「イー」さんであったり、ロータリーを「ノータリー」と発音する。純粋なウラル=アルタイ語のルールに則った発音法である。
文化のグローバル化からか現在は語頭のR音を発音出来るようになった人たちも増えてきている。

※2
ここでは孟子。
他にも老子や韓非子など流派によって「義」の定義に違いがある。

2009年10月4日日曜日

アンタッチャブルの山崎ウルサイ!

弱い犬ほどよく吠えるというが、まさにその典型である。ゲストやMCの大事なコメントや聞きたい話しを全部かぶせてつぶしてしまう。こっちは真剣に聞いているのに、とにかく埒もない適当ないい加減なことを矢継ぎ早にかぶせてくるので鬱陶しくて仕方が無い。思わずチャンネルを変えたくなるが、見たい番組だとなんとか我慢しようとするのだが、それにしても山崎ウルサイ。煩くて五月蠅くて我慢できないウルササである。恐らく山崎本人が何も知らないのだろう、興味が無い内容の時に限って特にヒドいかぶせかたをしてくるのだから堪らない。いくらにぎやかしのお笑い芸人とはいえ度を過ぎている。同じような訳も判らないくせにチャチャを入れて台無しにする芸人に山崎方正やタカ&トシのタカや勝俣などがいるが、中でもこのアンタッチャブル山崎の声が一番五月蠅い。声質が合わないのだろう、一声で頭痛がしてくるのだ。いつからこんなに男芸人が下町のおばちゃん臭くなってしまったのか。自分が前に出ることばかり考えていて、人と会話しようとか人の話しを聞こうという真面目な態度が微塵も感じられないのだ。この20年でTVはどうしてこんなに五月蠅い人間を起用するようなってしまったのか、見る気も失せようというものである。

2009年10月2日金曜日

いきなり黄金伝説で

「JR山手線ぐるっと一周、人気駅グルメ全て食べ尽くせ」という番組を見ようと思ったが挫折した。どのようなメニューや店があるのかに興味があったのだが、のっけに大嫌いなタカ(どす黒いオーラなのにダメ人間)が出ていたので、速攻タカが出なくなるまで早送りした。その後の5人がまた酷過ぎ。食べ物を紹介する番組であろうに、コメンテーター(今回はお笑い芸人)が実に汚い食べ方をするのだ。見るに耐えかねて途中で視聴をやめてしまった。
思うのだが、こういったグルメ番組の類で食べ方が不潔で汚いコメンテーターを使うというのは甚大なマイナス要因ではないのか?直接影響を受けないTV局はギャラの安さと演出しなくてもカメラを回しておけば済むといったお手軽さから、このような低額芸人(※1)を使う傾向が強いが、紹介される店側にとってはとんでもない誤算であったろう。何を食べていても全くおいしそうではないばかりか、非常に見苦しい食べ方をされるので食品自体が不味くて下品に見えて仕方がない。しかも食した後のコメントは無しに等しく、ただただ提供された食べ物を卑しく掻っ込むだけである。いかにSEで笑いを足そうがドン引きしてしまう。まあHD録画なので見たくないシーンは早速飛ばす。
次の3人(ロバート)は比較的まともだった。割とキチンと感想や紹介もしてい、コメントは薄いがやることはやってる。はじめてまともに仕事する芸人が出て一安心。
が、よく見るいるとどうもコメント部分を編集でカットしているくさい。つまりこの番組のディレクターもプロデューサーも食品やお店を紹介しようなどという気は毛頭無かったということらしい。バーターでタダ食いしつつ、予算は浮かして遊興費にしてウッヒッヒということなのだろう。視聴をはじめてわずか(早送りしつつだから)だがもういい。期待はずれだった。視聴者を馬鹿にするにも程がある。それとも世の中の人々はこういった下品な食べ方が気にならないくらい同じく下品な人々の集まりだとでもいいたかったのか?真面目に会社勤めをしている人間と現代の幇間であるお笑い芸人を同列に考えろということなのか?いや、もしかしたらこのような品性下劣な輩でもうまいことやればオイシイ人生送れますよ?という一流の詐欺で瞞着しているだけなのかも知れない。くわばらくわばら(※2)

※1
代表的な格安芸人には爆笑問題や青木さやか等がいる。爆笑~はさておき、どうして性格もブスでスタイルも良くない芸もない青木さやかなどがこんなに出ているのか疑問に思う人も多いだろうが、なにしろギャラが安いそうだ。ほとんどエキストラのひな壇の派遣姉ちゃんとそれほど変わらないので、食うために呼ぶのでなければ、素人に毛が生えたようなのを呼ぶくらいならお世辞上手の青木を呼んだ方が使っていて気持ちがいいということらしい。

※2
お笑いの「くわばらおはら」ではない。かつて菅原道真公の怨霊が京の都を襲った折に、落雷で怨敵の藤原氏のものをはじめ、数々の御殿が焼失する中、道真公の御殿があった京の桑原(地名)には何の異変もなく平穏無事であったことから、それ以降、雷が鳴るたびに京の人々は「ここは桑原(くわばら)ですよ。だから雷落とさないで下さいね~。ほらここは、くわばらくわばら」と祈ったということだ。そのことが転じて今でも厄よけ魔よけ代わりの呪文として使用されている。落語に詳しい人には釈迦に説法でした。

2009年10月1日木曜日

10月はたそがれの国

今日から10月。ブラッドベリィが本のタイトルにしたほどに魅惑ある月のはじまりである。10月という月は12ある月の中で一番好きな月だ。秋が好きだということもあるが、中でもこの10月がいっとう好きだ。春からはじまった活動期が夏の盛りを経て、豊潤な恵みとして実を結び、再び新しい命を育むための種子を生む季節である。熟成のために身を休める冬を迎える前の最後の狂気が生まれる季節でもある。人生で言えばまさに白秋。円熟味が増し一番人として輝く、豊かな時代がこの秋という季節だろう。10月の星座は天秤座である。善でも悪でもない中立をモットーとする灰色の星座である。誕生石はオパール。こちらはめまぐるしく変化する変幻自在の色彩を持つ宝石だ。全ての色が含まれるそれは一見乳白色のようだが、光の加減であらゆる色相を世に放つことが出来る。さながら移り気な魔女のような石である。10月は不思議だ。一方では公明正大な正義感を持ち、一方ではつかみどころのない浮き草のようでもある。まさに風の星座を代表する自由奔放な月でもある。10月の音はこの風と雲と虫達のハーモニーだ。静かに思索に耽るにはもっとも良い季節である。ブログというものはとどのつまり個人的な日記であろうということで、10月のはじまりにあたりまさにこれからの一年がまたはじまる気持ちでこういう戯言もたまにはよいだろう。