2009年10月8日木曜日

「ら」抜き言葉

「ら」抜き言葉をTVで聞くようになって久しいが、このような現象が現れて10~20年ほど経ったであろうか。個人的には違和感を感じるものの言葉は生き物であると考え、他人が話す(と言っても私の知人達はら抜きで話す人が居ないのでTV以外では聞いたことがないが)のには今までそれほど気にならないでいた。

だが本日TVを見ていて、俳優のウルトラマンつるの氏が「(外人牧師が)英語でしゃべられたのですが」を「英語でしゃべれたのですが」と「ら」抜きで話しているのを聞いて驚愕したのだ。つるの氏の場合二重に間違ってはいるが、問題はつるの氏のような若者らが「ら」抜き言葉を使っているうちに、「ら」が発音出来ない、または認識出来なくなっているのではないか?ということだ。他人が正しい日本語を発声しても聞こえない、つまり音が耳に入っても脳が理解出来ないつくりになってしまっているのではないかと、ふと考えてしまったのだ。ちょうど本来の韓国人が語頭のR音を認識しないことのようにである。(※1)
この問題は、今後敬語そのものも消えて行く可能性さえ秘めている。日本語がその多様な表現方法を失い、語彙の少ない単純な言葉になっていくという可能性だ。かつて昭和35年の文化大革命的改定により当用漢字は僅か三千五百程度にされてしまった経緯がある。本来使用されていた漢字が三~四万ほどあることを考えるといきなり10分の1になってしまったのだ。その僅かな漢字さえも今時は私も含めどれだけの人が使うことが出来るだろう。

漢字というものは表意文字である。ためにひとつの漢字を学ぶには、その字が持つ成り立ちとそれにまつわる歴史、そこから導きだされる正しい使用法を学ばねばならない。ゆえに「字」を知るものは本来「読書人」(日本語でいうところの所謂インテリ)と呼ばれ、尊敬されたのである。
まあそこまで行く必要はないが、せめて社会人としての言葉のけじめは必要ではないかと思うのだ。

敬語や謙譲語というのは「礼」の表れである。つまり相手に感じている自身の想いを伝える行為である。蛇足だが「上礼に返礼なし」という言葉がある。本当の「礼」とは相手の見返りやリアクションを期待して行うものではなく、自身の想いを現す行動の謂いであるため、それを受ける相手の(する)ことは、自分が礼を行うということとは関係がないということを、知るということである。ゆえに返礼が欲しければ相手への感謝の念、尊敬の念が伝わるまでさらに礼を尽くすのみであるという教えである。そのような「礼」を行うことで己の人間関係に一定のルールを設けることを「義」という。(※2)だから本来の「礼」を知る人間はおざなりに人に頭を下げたりしない。心にもないのに礼を行うフリ(似非)が出来るのは、利に聡い商人だけである。

まあ今時は目上の人間に平気でタメ口を利く様子をTVで計画的に流しているのを見ると、日教組がかつて狙った?通りに日本人改造計画は進んでいるのだろう(藁)ゆえにこの「ら」抜き言葉にはじまる語彙減少も予定通りなのかも知れない。こうして人間も単純化したほうが支配しやすいということか?

※1
李さんが「イー」さんであったり、ロータリーを「ノータリー」と発音する。純粋なウラル=アルタイ語のルールに則った発音法である。
文化のグローバル化からか現在は語頭のR音を発音出来るようになった人たちも増えてきている。

※2
ここでは孟子。
他にも老子や韓非子など流派によって「義」の定義に違いがある。

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