2010年5月10日月曜日

基地問題は…外務省が悪い

風が吹けば桶屋が儲かるではないが、今回の基地問題は外務省のお役人の怠慢によるものである。

暴論を言ってしまえば、何故今北朝鮮に働きかけて徳之島に攻撃をかけさせないのか?
中国に働きかけて10隻程度の軍艦を通過させるだけでは、国民の目は覚めないのだ。
ここは黒船よろしく徳之島や鹿児島沖で発砲させるくらいまで頑張らなきゃ駄目だ。
この国が独自の軍隊(防衛力)を持たない、勝手取り放題の国であるならば、いつでも誰でも攻めて来ることが出来る。
アメリカ軍基地はいわば必要最低限の防衛(抑止)手段であることは、火を見るより明白であろう。
現実問題として、アメリカ軍基地を無くすなら、代わりに国軍を組織して防衛の任に当たらせねばならない。
結果基地はアメリカ軍から日本軍へと移管するだけで、基地は無くなりはしないのだ。
だったら東京に作ればいいではないか。という意見もあるだろう。残念ながら地政学的に見て、それは無理がある。
事実、厚木や座間など現在でも基地は存在するが、緊急展開の必要性から規模は縮小されてきた経緯がある。

かつてロシアが対馬を占領しようとした時に、武力による奪還を見事に果たした勝海舟の例を引くまでもなく、理不尽な武力には武力で対抗しない限り国土を守る術はない。
事実竹島は韓国軍に占領されてしまっている。
これを話し合いだけで片付けようとするなんて甘すぎるにも程がある。要は戦争は経済問題であるから、竹島から韓国軍に出て行ってもらうためには毎年貢物を韓国に送り続ける必要があるだろう。

マスコミもこれ以上面白がって煽り続けたら、将来的に禍根を残すことをもっと真剣に考えるべき。どうやらここ何日かで少しばかり反省はしてきているような報道姿勢も見受けられるようになったが、同じ日本国国民としてもっともっと真剣に考えて報道して欲しいものだ。

2010年5月3日月曜日

自由について考えてみた

人は基本的に「自由」である。

何を考えようが、何をしようが一切が「自由」である。

例えば殺したいほど憎いやつがいて、その人間を殺したとしよう。人を殺すことは「自由」である。だが、そんな人間が自分の隣に存在されては困るので、当然人を殺した人間は罰せられる。これが「責任」である。

人は何をしても「自由」だが、己が行った運動に対しては当然「責任」を伴なう。

もっと卑近な例をあげると、「嘘」を行うのも自由である。誰を騙そうが誰を欺こうが誰を裏切ろうが、その人の自由である。だが当然騙した「責任」欺いた「責任」裏切った「責任」が付いてくる。その「責任」を人は果たさなければならない。「社会」に存在するということはそういう意味である。

故に「自由」とは「自らが由し(最善と納得)」とした運動である以上、結果何が起ころうと「己」で「責任」を取らねばならない。

別の言い方をすれば、その「責任」を取る覚悟さえあれば、何を他人に言及・指摘されようと、その意見を無視するのも受け入れるのも自由である。

他人の忠告を無視した結果、悲惨な目にあったり重大な過失を犯すのも「自由」である。一方、忠告を受け入れ成功するも大金を手に入れるも「自由」である。その「成功」も「富」も「責任」である。何故なら「成功」も「富」も他人の「妬み」を受けるという「責任」を果たさなければいけないものだからだ。

そう考える時、現在の己の状況を他人のせいにすることの愚かさが見えてくる。「上役が悪い」「会社が悪い」「政治が社会が悪い」そう思うなら、その対象に「責任」を取らせれば良いのだ。「責任」を取らせるべく運動を行えば良い。その運動を行うことは「自由」である。

その結果会社を解雇されたり、社会から認知されなくなったり、冤罪で逮捕されるのも「自由」であり「責任」である。

多くはそのような「運動」を行うことのリスクを天秤にかけて実行することなく平穏無事に生きることを選ぶだろう。それもまた「自由」である。だが、その選択には「悪」に屈したという「責任」が伴なうことも理解していなければいけない。