2010年5月3日月曜日

自由について考えてみた

人は基本的に「自由」である。

何を考えようが、何をしようが一切が「自由」である。

例えば殺したいほど憎いやつがいて、その人間を殺したとしよう。人を殺すことは「自由」である。だが、そんな人間が自分の隣に存在されては困るので、当然人を殺した人間は罰せられる。これが「責任」である。

人は何をしても「自由」だが、己が行った運動に対しては当然「責任」を伴なう。

もっと卑近な例をあげると、「嘘」を行うのも自由である。誰を騙そうが誰を欺こうが誰を裏切ろうが、その人の自由である。だが当然騙した「責任」欺いた「責任」裏切った「責任」が付いてくる。その「責任」を人は果たさなければならない。「社会」に存在するということはそういう意味である。

故に「自由」とは「自らが由し(最善と納得)」とした運動である以上、結果何が起ころうと「己」で「責任」を取らねばならない。

別の言い方をすれば、その「責任」を取る覚悟さえあれば、何を他人に言及・指摘されようと、その意見を無視するのも受け入れるのも自由である。

他人の忠告を無視した結果、悲惨な目にあったり重大な過失を犯すのも「自由」である。一方、忠告を受け入れ成功するも大金を手に入れるも「自由」である。その「成功」も「富」も「責任」である。何故なら「成功」も「富」も他人の「妬み」を受けるという「責任」を果たさなければいけないものだからだ。

そう考える時、現在の己の状況を他人のせいにすることの愚かさが見えてくる。「上役が悪い」「会社が悪い」「政治が社会が悪い」そう思うなら、その対象に「責任」を取らせれば良いのだ。「責任」を取らせるべく運動を行えば良い。その運動を行うことは「自由」である。

その結果会社を解雇されたり、社会から認知されなくなったり、冤罪で逮捕されるのも「自由」であり「責任」である。

多くはそのような「運動」を行うことのリスクを天秤にかけて実行することなく平穏無事に生きることを選ぶだろう。それもまた「自由」である。だが、その選択には「悪」に屈したという「責任」が伴なうことも理解していなければいけない。

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