2010年4月19日月曜日

三国志と重ねてみる

今の政治を三国志で表したらどうなるだろう?と考えてみた

・魏 自民
・蜀 民主
・呉 第三極

こう考えると最後に天下を取るのはやっぱり自民ということになる。

民主を蜀に宛がうと、劉備は鳩山首相、関羽は小沢さんだろうか…張飛が居ないなぁ…あ、諸葛孔明も居ないや

呉はこれから起こるいろいろな新党だろうなー
勢いはありそう

自民だと曹操に比せる人物が誰もいない…
司馬懿は居る。舛添氏がまさにそれ。最後は裏切って隋を起こす…
そうか、そう考えると最後に笑うのは次の唐(党)を立ち上げる人間だ!

おそまつ

2010年4月17日土曜日

鳩山さん、首相は首相らしく

アイヌ・ネノアン・アイヌ(アイヌはアイヌらしく)

「アイヌ」と言うのはアイヌ語で「人」という意味であるそうだ。
つまり「人として恥ずかしくない生き方をせよ」という意味だろう。
その言葉には強烈な自省を促す教えがある。

しかし鳩山首相…(普天間問題は)「マスコミが騒ぎすぎ」(だから問題になった)というのは、国のリーダーとして恥ずかしい言だと何故気付かないのか?
もちろん本意は違うだろう「マスコミによる情報操作」を危惧しての言なのかも知れない。が、マスコミが真意を斟酌したり、真実を伝えるわけがないではないか。
逆に言葉尻を捕まえられて、恣意的操作に用いられるだけであることに、何故気付けなかったのか…

一度でも外在化すればそれはもう無かったことには出来ない。ゆえに仏教で言う末法思想のように、悪事は一度行われれば二度と無くならない、さらに上回る悪事が重なって行くのみである。そして世は悪が蔓延る末世へと進んで行く。
政治家の言も同じである。一度口にして世に出た言は、二度と取り消すことは出来ない。
だからこそ政治家とは「言を統治する者」でなければいけない。
これはギリシアのキケロの時代から何も代わることの無い真理である。

人は欲望・恐怖などで動く生物ではあるが、最も影響を受けるのはエモーションによってであると思う。その感情を動かすエネルギーは「感動」するということだと思う。
そして言の葉によって「感動」をコントロール出来得る人間こそが真に政治を司る者であろう。
人は獣と違い、肉体的恐怖以上に心の強さが生き様を決定する生物であるから、
その心をコントロール出来る人は当然人の尊敬に値する。
逆にそのコントロールが出来ない人間は軽蔑されるだろう。

然るに「マスコミ」が事実に即してないから…というのは我々庶民レベルで口にすることはあっても、一国のリーダーたるべき総理大臣が口にして良い言葉ではない。
元来「マスコミ」とは「野次馬」の謂いであり、そこに誠実を求めてはいけない。
うつろう存在こそが「マスコミ」という幽霊の正体であるからだ。

その「まぼろし」に向かって文句を言うのは自由だが、公人である自覚も忘れないで欲しい。

2010年4月5日月曜日

残苦労、無念

残九郎の最終回は実に惨いものだった…

安定しない画面、落ち着きのないカメラワーク、奇を衒っただけの意味のないカットバック編集、音声バランスの調整をミスしているせいで鼓膜が破れそうなほど無駄にデカい音がしたかと思えば、台詞(の音量)が小さすぎてよく聞き取れなかったりしている。いつもの洒脱な演技や演出はなく、ただ嫌味に緊張を強いるような演技バランスの悪さ、客を楽しませようとする視点も演出もどこにもなく、ただただ己の自己満足のためだけに制作されたかのような酷い出来だった。
いわゆる厨2病の監督(素人)が作るとこうなるのであろうかという、いいお手本のようだ。
カメラマンがキッチリいつも道りの職人仕事をしている分、余計フィルムの痛さが増している。
いくら最終回だからって、これはないんじゃないかな…
今までの不満を晴らすための現場の反乱(プロはそういうことはしないが)か?とさえ疑ってしまうような出来栄えだ。
どうしたのだろう?いったいなにが起こっていたのだろう?
謎を残したまま尻切れトンボで終わっていくフィルムを見て愕然としたのであった…

2010年4月4日日曜日

memo

ピタゴラス派の戒律

まず不滅の神に対して汝の勤めを果たすべし
 親御と近親者を敬い 徳において第一の者を友となし 彼の話に注意深く耳を傾けるべし
 ささいな欠点で友を力に任せて捨てるな
 怒り、怠惰、贅沢は避けよ 邪悪なものを慎め しかし己を最も恐れるべし
 肝に命じよ、人は皆死ぬべく定められている 富はそれを得た時と同じように速やかに失われる
 十字架(苦しみのこと)は神の思し召しによってもたらされるので (汝の運命がそうなっているならば)喜んで受けよ
 だが、一切の気苦労を除くように努め
 正しい者が(いつも)最高の利益を得るとは限らないことを思え 人の甘い言葉に惑わされるな
 荒々しい脅迫に恐れをなして正しい覚悟を捨てるな
 もし何かをしようとするなら、まずよく考えよ 後で悔やむようなことをしてはならぬ
 まず自分に向いている事を学ぶようにせよ
 運動と食事に節制を心掛け 平静な落ち着きの中に己を保つべし
 虚栄心がもたらす浪費を戒め 浅ましくなってもいけない。何事も中庸が最善である
 例の日記を3回繰り返すまでは 夜、目を閉じて休んではならない。
 (すなわち) どんな過ちを犯したか、何をしたか、何をしていないか
 このように初めから終わりまで総括を行い 悪行のためには悲しみ、善行を喜べ
 恐れることはない、人はもともと天上の種族である
 神聖な自然により何を抱擁すべきかを教えられ、それを追求すれば 魂を肉体の汚れから守ることになる
 控えよ。理性を用いて心のたずなを引け そうすれば天上へと昇り、肉体からは自由になる
 そなたは死を免れた聖人であり、もはや滅びることはない

2010年4月3日土曜日

’不道徳な世界で道徳者は規律を守れるか?’

タイトルは
TV劇アップライジングでの台詞のひとつだ

‘恐れは人を卑怯にする‘
アニメ「ペルセポリス」の台詞のひとつだ

貧乏で生活が苦しく何も食べるものがない状況に陥った時、人はどのような行動を取るのであろうか?どのような行動を取るべきか?生きるために?何に対して?矜持を失ってまで生きる価値が生にはあるのか?

こういったテーマそのものが文字禍であると考えるなら、その人にとっては無駄な問いである。生に執着することが生そのものの本質であるとするならば、人がヒトという名の獣に戻った時、生きるためなら己以外の生物を殺し奪ってでも生き延びようとするだろう。
それが正義であるならば社会は何のためにあるのか?人の世のルールは?政治は?そして道徳とは?

道徳を守らないものが人に何を説いても説得力など微塵もない。
どんな権力や権威を持っていようとだ。

’不道徳な世界で道徳者は規律を守れるか?’

このテーゼは古くて答えの無い質問である。