2010年1月8日金曜日

たけしのにっぽんのみかた

「夜ぐっすり眠れるのは、誰かが守ってくれているからだ」 ショーペンハウエル

その手法で言うならば
「米を作ってもいないのに米が食えるのは、誰かが米をつくってくれているからだ」
となる。同じように、
「牛を飼ってもいないのに牛乳が飲めるのも肉が食えるのも、誰かが牛を飼ってくれているから」
であるし、魚にしても野菜にしても、はたまたこのブログにしてもそうだ
そして何物をも生み出さず、貪欲に浪費するだけの人間はまたこういうかもしれない
「モノをつくっていられるのは、誰かがソレを浪費してくれるからだ」と
しかし、それは欺瞞である。モノ作りを瞞着する老獪な罠である。
浪費は罪悪でしかない
ここでいう「浪費」とは己の肉体や精神の必要最低限の糧以上に消費する行為を言う。
消費する行為自体が罪悪と言ってもいいかも知れない。
アイヌのイヨマンテに代表される消費の際の祭りやクリスチャニティに言うところの「原罪」思想である。
今でも他者の生命を奪ってしか生きることのできない我々は、食材に対する感謝の念で「(あなたの命を)いただきます」の精神で食事をしている。
その精神があれば浪費はしない。当たり前のことである。
浪費は原罪(消費)以上に罪を重ねる大悪であるからだ。
それが己の才覚で得られるもの以上のモノを消費しているのであればなおさらだ。
その分別を持てるようになってはじめて「大人」と呼ばれるようになる。
「大人」とは一種の身分であって、年齢を経れば得られるものではない。
身分相応の考え方・精神を得るための、努力や才能が必要なのである。
今日の番組はそのことをより印象付けるための一種の警鐘番組であったのだろう。
たんなる世代間抗争の結果であってよいはずはない。
そう信じなければお先真っ暗ではないか…

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