2010年6月28日月曜日

神の国

黄色人種はものをつくり、黒人は働き、白人はそれらを消費して我が世の春を楽しむ。
これが彼ら選ばれた民(エリート=白人)たちの考えるゴッドランドである。

その完全なる実現のため少しでも有色人種にとって有利に働くと思われた場合、ただちにそのルールやシステムは白人に有利になるように是正されねばならない。
商取引もスポーツも通信も流通に関わるあらゆる事柄も全ては白人第一主義に徹しなければならない。
本来努力などというものは有色人種に任せておけばよいのだが、ことこれらのルール策定においては手間を惜しんではならない。
そのための実力行使手段として最大の軍事力は常に白人側が握っていなければならない。
少しでも脅威に感じた場合は直ちに武力制圧すべきである。
そのための大義名分は後付で構わない。スピードをもって対処すべき時に躊躇してはならない。
それがゴッドランド=地球に住む白人の使命である。
詭弁は多いに利用すべきである。廉恥心は体面上必要と思われた場合にのみ表面だけに留め、本来は持つべきではない。
所有権・財産権はすべて白人の手にあることを徹底させよ。
有色人種の成果はすべて取り上げよ。
ピラミッドの頂点には必ず白人が居ることを周知させよ。疑問を抱かせてはならない。
白人の手からのみ餌を与えられることでしか生存出来ないように、有色人種を飼い馴らせ。
有色人種の管理・統治は有色人種にさせよ。
バルバロイはバルバロイの手に任せるべきである。
しかし手綱はけして離すな。
逆らうものには死を!
世界は白人の統治によってのみ平和が保たれていると知らしめよ。
それが神の国、ゴッドランドである。

2010年5月10日月曜日

基地問題は…外務省が悪い

風が吹けば桶屋が儲かるではないが、今回の基地問題は外務省のお役人の怠慢によるものである。

暴論を言ってしまえば、何故今北朝鮮に働きかけて徳之島に攻撃をかけさせないのか?
中国に働きかけて10隻程度の軍艦を通過させるだけでは、国民の目は覚めないのだ。
ここは黒船よろしく徳之島や鹿児島沖で発砲させるくらいまで頑張らなきゃ駄目だ。
この国が独自の軍隊(防衛力)を持たない、勝手取り放題の国であるならば、いつでも誰でも攻めて来ることが出来る。
アメリカ軍基地はいわば必要最低限の防衛(抑止)手段であることは、火を見るより明白であろう。
現実問題として、アメリカ軍基地を無くすなら、代わりに国軍を組織して防衛の任に当たらせねばならない。
結果基地はアメリカ軍から日本軍へと移管するだけで、基地は無くなりはしないのだ。
だったら東京に作ればいいではないか。という意見もあるだろう。残念ながら地政学的に見て、それは無理がある。
事実、厚木や座間など現在でも基地は存在するが、緊急展開の必要性から規模は縮小されてきた経緯がある。

かつてロシアが対馬を占領しようとした時に、武力による奪還を見事に果たした勝海舟の例を引くまでもなく、理不尽な武力には武力で対抗しない限り国土を守る術はない。
事実竹島は韓国軍に占領されてしまっている。
これを話し合いだけで片付けようとするなんて甘すぎるにも程がある。要は戦争は経済問題であるから、竹島から韓国軍に出て行ってもらうためには毎年貢物を韓国に送り続ける必要があるだろう。

マスコミもこれ以上面白がって煽り続けたら、将来的に禍根を残すことをもっと真剣に考えるべき。どうやらここ何日かで少しばかり反省はしてきているような報道姿勢も見受けられるようになったが、同じ日本国国民としてもっともっと真剣に考えて報道して欲しいものだ。

2010年5月3日月曜日

自由について考えてみた

人は基本的に「自由」である。

何を考えようが、何をしようが一切が「自由」である。

例えば殺したいほど憎いやつがいて、その人間を殺したとしよう。人を殺すことは「自由」である。だが、そんな人間が自分の隣に存在されては困るので、当然人を殺した人間は罰せられる。これが「責任」である。

人は何をしても「自由」だが、己が行った運動に対しては当然「責任」を伴なう。

もっと卑近な例をあげると、「嘘」を行うのも自由である。誰を騙そうが誰を欺こうが誰を裏切ろうが、その人の自由である。だが当然騙した「責任」欺いた「責任」裏切った「責任」が付いてくる。その「責任」を人は果たさなければならない。「社会」に存在するということはそういう意味である。

故に「自由」とは「自らが由し(最善と納得)」とした運動である以上、結果何が起ころうと「己」で「責任」を取らねばならない。

別の言い方をすれば、その「責任」を取る覚悟さえあれば、何を他人に言及・指摘されようと、その意見を無視するのも受け入れるのも自由である。

他人の忠告を無視した結果、悲惨な目にあったり重大な過失を犯すのも「自由」である。一方、忠告を受け入れ成功するも大金を手に入れるも「自由」である。その「成功」も「富」も「責任」である。何故なら「成功」も「富」も他人の「妬み」を受けるという「責任」を果たさなければいけないものだからだ。

そう考える時、現在の己の状況を他人のせいにすることの愚かさが見えてくる。「上役が悪い」「会社が悪い」「政治が社会が悪い」そう思うなら、その対象に「責任」を取らせれば良いのだ。「責任」を取らせるべく運動を行えば良い。その運動を行うことは「自由」である。

その結果会社を解雇されたり、社会から認知されなくなったり、冤罪で逮捕されるのも「自由」であり「責任」である。

多くはそのような「運動」を行うことのリスクを天秤にかけて実行することなく平穏無事に生きることを選ぶだろう。それもまた「自由」である。だが、その選択には「悪」に屈したという「責任」が伴なうことも理解していなければいけない。

2010年4月19日月曜日

三国志と重ねてみる

今の政治を三国志で表したらどうなるだろう?と考えてみた

・魏 自民
・蜀 民主
・呉 第三極

こう考えると最後に天下を取るのはやっぱり自民ということになる。

民主を蜀に宛がうと、劉備は鳩山首相、関羽は小沢さんだろうか…張飛が居ないなぁ…あ、諸葛孔明も居ないや

呉はこれから起こるいろいろな新党だろうなー
勢いはありそう

自民だと曹操に比せる人物が誰もいない…
司馬懿は居る。舛添氏がまさにそれ。最後は裏切って隋を起こす…
そうか、そう考えると最後に笑うのは次の唐(党)を立ち上げる人間だ!

おそまつ

2010年4月17日土曜日

鳩山さん、首相は首相らしく

アイヌ・ネノアン・アイヌ(アイヌはアイヌらしく)

「アイヌ」と言うのはアイヌ語で「人」という意味であるそうだ。
つまり「人として恥ずかしくない生き方をせよ」という意味だろう。
その言葉には強烈な自省を促す教えがある。

しかし鳩山首相…(普天間問題は)「マスコミが騒ぎすぎ」(だから問題になった)というのは、国のリーダーとして恥ずかしい言だと何故気付かないのか?
もちろん本意は違うだろう「マスコミによる情報操作」を危惧しての言なのかも知れない。が、マスコミが真意を斟酌したり、真実を伝えるわけがないではないか。
逆に言葉尻を捕まえられて、恣意的操作に用いられるだけであることに、何故気付けなかったのか…

一度でも外在化すればそれはもう無かったことには出来ない。ゆえに仏教で言う末法思想のように、悪事は一度行われれば二度と無くならない、さらに上回る悪事が重なって行くのみである。そして世は悪が蔓延る末世へと進んで行く。
政治家の言も同じである。一度口にして世に出た言は、二度と取り消すことは出来ない。
だからこそ政治家とは「言を統治する者」でなければいけない。
これはギリシアのキケロの時代から何も代わることの無い真理である。

人は欲望・恐怖などで動く生物ではあるが、最も影響を受けるのはエモーションによってであると思う。その感情を動かすエネルギーは「感動」するということだと思う。
そして言の葉によって「感動」をコントロール出来得る人間こそが真に政治を司る者であろう。
人は獣と違い、肉体的恐怖以上に心の強さが生き様を決定する生物であるから、
その心をコントロール出来る人は当然人の尊敬に値する。
逆にそのコントロールが出来ない人間は軽蔑されるだろう。

然るに「マスコミ」が事実に即してないから…というのは我々庶民レベルで口にすることはあっても、一国のリーダーたるべき総理大臣が口にして良い言葉ではない。
元来「マスコミ」とは「野次馬」の謂いであり、そこに誠実を求めてはいけない。
うつろう存在こそが「マスコミ」という幽霊の正体であるからだ。

その「まぼろし」に向かって文句を言うのは自由だが、公人である自覚も忘れないで欲しい。

2010年4月5日月曜日

残苦労、無念

残九郎の最終回は実に惨いものだった…

安定しない画面、落ち着きのないカメラワーク、奇を衒っただけの意味のないカットバック編集、音声バランスの調整をミスしているせいで鼓膜が破れそうなほど無駄にデカい音がしたかと思えば、台詞(の音量)が小さすぎてよく聞き取れなかったりしている。いつもの洒脱な演技や演出はなく、ただ嫌味に緊張を強いるような演技バランスの悪さ、客を楽しませようとする視点も演出もどこにもなく、ただただ己の自己満足のためだけに制作されたかのような酷い出来だった。
いわゆる厨2病の監督(素人)が作るとこうなるのであろうかという、いいお手本のようだ。
カメラマンがキッチリいつも道りの職人仕事をしている分、余計フィルムの痛さが増している。
いくら最終回だからって、これはないんじゃないかな…
今までの不満を晴らすための現場の反乱(プロはそういうことはしないが)か?とさえ疑ってしまうような出来栄えだ。
どうしたのだろう?いったいなにが起こっていたのだろう?
謎を残したまま尻切れトンボで終わっていくフィルムを見て愕然としたのであった…

2010年4月4日日曜日

memo

ピタゴラス派の戒律

まず不滅の神に対して汝の勤めを果たすべし
 親御と近親者を敬い 徳において第一の者を友となし 彼の話に注意深く耳を傾けるべし
 ささいな欠点で友を力に任せて捨てるな
 怒り、怠惰、贅沢は避けよ 邪悪なものを慎め しかし己を最も恐れるべし
 肝に命じよ、人は皆死ぬべく定められている 富はそれを得た時と同じように速やかに失われる
 十字架(苦しみのこと)は神の思し召しによってもたらされるので (汝の運命がそうなっているならば)喜んで受けよ
 だが、一切の気苦労を除くように努め
 正しい者が(いつも)最高の利益を得るとは限らないことを思え 人の甘い言葉に惑わされるな
 荒々しい脅迫に恐れをなして正しい覚悟を捨てるな
 もし何かをしようとするなら、まずよく考えよ 後で悔やむようなことをしてはならぬ
 まず自分に向いている事を学ぶようにせよ
 運動と食事に節制を心掛け 平静な落ち着きの中に己を保つべし
 虚栄心がもたらす浪費を戒め 浅ましくなってもいけない。何事も中庸が最善である
 例の日記を3回繰り返すまでは 夜、目を閉じて休んではならない。
 (すなわち) どんな過ちを犯したか、何をしたか、何をしていないか
 このように初めから終わりまで総括を行い 悪行のためには悲しみ、善行を喜べ
 恐れることはない、人はもともと天上の種族である
 神聖な自然により何を抱擁すべきかを教えられ、それを追求すれば 魂を肉体の汚れから守ることになる
 控えよ。理性を用いて心のたずなを引け そうすれば天上へと昇り、肉体からは自由になる
 そなたは死を免れた聖人であり、もはや滅びることはない

2010年4月3日土曜日

’不道徳な世界で道徳者は規律を守れるか?’

タイトルは
TV劇アップライジングでの台詞のひとつだ

‘恐れは人を卑怯にする‘
アニメ「ペルセポリス」の台詞のひとつだ

貧乏で生活が苦しく何も食べるものがない状況に陥った時、人はどのような行動を取るのであろうか?どのような行動を取るべきか?生きるために?何に対して?矜持を失ってまで生きる価値が生にはあるのか?

こういったテーマそのものが文字禍であると考えるなら、その人にとっては無駄な問いである。生に執着することが生そのものの本質であるとするならば、人がヒトという名の獣に戻った時、生きるためなら己以外の生物を殺し奪ってでも生き延びようとするだろう。
それが正義であるならば社会は何のためにあるのか?人の世のルールは?政治は?そして道徳とは?

道徳を守らないものが人に何を説いても説得力など微塵もない。
どんな権力や権威を持っていようとだ。

’不道徳な世界で道徳者は規律を守れるか?’

このテーゼは古くて答えの無い質問である。

2010年3月29日月曜日

ちょっと想像してみた

人の生涯賃金は3億円ということらしいが、まあ大雑把に考えて働ける期間は20~60歳までの40年間として…3億を40年で割ると平均年収は750万になる。で大方の人は定年に近くなるほど年収はアップするだろうから、20~30までは年収500万、30~40までは700万、40~50までが800万、50~60が1000万みたいな計算になる。
で、そんなに貰えている人間が一体どれだけいるかと考えてみると…
どうも8割くらいの人はそんなに貰えてないのではないだろうか?
だとしたら残りの2割の人たちが非常に高額な金銭を貰っているということになる。
その人たちはそんなに貰えるほど働いているのだろうか?世の中に貢献しているのであろうか?
どうもそんなことはなさそうだ。
だったら何故そんなに高額を得ることができるのであろう?
答えは単純である。そのように高額を得る仕組みを持っているからである。
その仕組みはなんでもいい、結果的に高額を得ているという事実があるだけである。
その仕組み=ルールを知っていて、それをうまく利用できるものだけが高額所得者になれるのである。

ディレイニーの小説に「時は準宝石の螺旋のように」というのがある。
主人公は最初は貧乏なコソ泥である。それが最後にはセレブの仲間入りを果たし、自分達セレブの生活維持のためのルール作りに加担するようになるまでの立身出世物語である。
いかにも資本主義の本質を描いた名作であるが、では皆がその物語の主人公のように行動できるのかというと、とてもとても小心で善良な一般人にはマネなど出来ようはずもないない。
(一時期「勝ち組になるための10の法則」みたいな指南書が多く出回っていたが、そこに述べてあることを実践すれば出来るようになるかもしれない)
結局は悪事を行う=自らの手を汚すだけの度胸も器量もない善良な人々は、いつまでも貧乏で食い物にされるだけなのだ。ということなのであろう。

ダムだの郵政だの道路だの株だの証券だの、世の中にはいろいろな旨い仕組みや合法的な詐欺が存在するわけだが、金持ちになりたい人はそういったルールを上手に利用するのが良い。
TVに出ている司会者やコメンテーターは皆、それらのルールに則った世界に住む我々庶民とは一線を画する存在である。
いわゆる別世界の住人たちである。
ゆえに当然彼らが言っていることや行う運動は、彼らの世界を擁護するものであって、我々庶民がどうなるかなどまったく眼中にないと思ったほうが間違いがない。

今日もTVのニュースバラエティを見ながら、なんとなくそんなことを想像してみるのであった。
俺ももっとスルーする力を身に付けて、なにも考えないようにしなくちゃなー
そうしないと幸福にはなれない気がする。

2010年3月23日火曜日

斬九郎の面白さについて考えてみる

まず心地よい緊張感
役者(※)しか出ない現場の真摯な姿勢
キャスティングの妙
練りこまれたシナリオ
打算のない絵作り
プロ魂
後味の良さ
大人のファンタジー
時代劇の意味

※滑舌の悪い2世や芝居が出来ないお笑い芸人を排除した

2010年3月18日木曜日

こんな日本に誰がした?

もちろん答えは自民党である。

まあ、もとから地上波はニュースを見ることがメインで、たまにバラエティや情報番組を見る程度なのだが。
それにつけても最近のニュースはアナウンサーやコメンテーターなどが、皆解説者気取りで誰に吹き込まれたのか、先をまったく見ていないかのような国民生活をないがしろにしたブルジョワジー的なことしかしゃべらないので、聞いていてイライラする。
考えてみれば、すでにTVに出ているという時点で彼らは特殊な存在である。高給を貰い将来も保証され、バブルが弾けようが信用取引(合法的詐欺)による金融不安を引き起こそうが、つまりは庶民ではない彼らにはなんら関係のない、勝ち組に属する一党であるということだ。
ならばブルジョワジー擁護・庶民生活からの乖離の発言を為すのは至極当然のことなのだろう。

しかし心ある人間ならば、裏でいくら王侯貴族のような贅沢な生活を謳歌していようが、表には微塵も表さないものだ。自分が金持ちであるとか、人より優れていることをひけらかす行為は品性下劣な証であるからである。一昔前の医者などは、どれだけ稼いでいようがあえて車はカローラを選んだものである。

それが今ではどうだ…まるで教育を受けていない成金アメリカ人かと見まごうほどの堕落ぶりである。
だいたいが「勝ち組」などという下品な言葉を使うようになったことからもわかるように、今の日本人(TVに映っているだけの限られたものたちだけではあるが…)は、あきらかに文化的に不自由なものたちである。
もっとも縁故採用ばかりで、ちゃんとした教育を受けていない連中が牛耳っているようなマスコミ番組に、品性や理性・論理的であることを望む方が間違っているのかもしれない…

もはや古きよき日本は失われてしまったということなのだろう。
「国体(’日本人’を形成するナショナルアイデンティティ)」の破滅である。
(戦争に負けるということはこういうことか…)

十・廿・世、アラビア数字で表記すると10・20・30であるが、つまり30年で代替わりするというのが「世」「世代」であり「世間」であるとする考え方である。
人は20歳で人に成り=成人=人間の仲間入りをし、社会の中で30年間活躍した後、50歳で一区切りをつける。下天(人間界のひとつ上方に存在する世界=仏教用語)にいう、たった一日(我々の世界では50年)のうちの社会活動に宛てられる運動期間がつまりは「世」ということだ。
これらは皆、昔の人の優れた感性によるいわば市井の哲学のようなもので、現代では通用し難いものなのだろう。
平均寿命は延び、働かなくても食べていける環境を生み出した現代文明社会においては、20歳で成人などにはなれない世の中になってしまっている。せいぜい30~40でやっと成人になれるかどうかという民度レベルであろう。
だが、30年を一区切りとする考え方は現代でも通用しそうだ。流行を観察して漠然とそう思うときがある。

2010年3月9日火曜日

ニュースが怖い

核持込みに関する密約報道で、当時の自民党を擁護し今の民主党を非難するかのようなニュースキャスターの口調を聞いていて、そら恐ろしくなった
今、TVはどこに向かおうとしているのだろう?

朝も昼も夕方も、相も変わらず民主党を必要以上に攻撃し続ける報道ばかりだ…
こんなものを毎日・毎晩見せ続けられれば、修養の出来ていないヒトは簡単に暗示にかかってしまうだろう。
もちろんそう洗脳するための、いわゆるシュプレヒ効果狙いなのだろう。
写真ひとつとっても民主党議員の紹介写真はマイナスイメージを持たせるものしか起用せず、発言は捏造に近いところまで編集され、過去の自民党独裁政権当時の負の遺産に関しては緘口令がしかれ、ひたすら民主党議員の揚げ足取りに終始する…
創作に自由がないのは身をもって感じていたが、ジャーナリズムももはや本当に幻想になってしまったのか…

うがった観方かもしれないが、現在のメディア業界(新聞・TVなど)のトップが半島系や宗教関係者になってしまっていることと何か関係があるのだろうか?

民主党政権を倒した後に何が来るというのだろう。

今の報道を見れば見るほど、とどのつまり「戦争」の二文字しか出てこないことにゾッとする。

この世でもっとも儲かる商売は何か?と聞かれれば、論理的な思考を持つ人間ならば100人が100人とも「戦争」と答えるだろう。
今の不況や社会の閉塞感を打破するのにもうってつけである。

民主党政権を倒して一番得をするのは誰だろう?

戦争は嫌だなぁ…

2010年3月7日日曜日

高橋道場

この間TVを見ていたら、とあるコメンテーターが「つまらないヤツほど声がデカイ」と言っているのが聞こえてきて、お!いいこと言うな~と思った
なるほど、俺が嫌いな芸人というのは皆これにあてはまる。
アンタッチャブルの山崎やダウンタウンの腰ぎんちゃく山崎方正など、声がデカイだけで中身はまるで無い奴らばかりだ。

で、今日はテレビ東京の高橋道場というのをなにげなく見ていたのだが、きちんとリサイクル活動を行っている横浜の市制について、くわばたおはらのオハラの方が難癖をつけて非難していたが、とんだお門違いであることに本人は気付いているのだろうか?
いや、恐らく気付いてはいまい。それがルサンチマンであるということだ。
ヒトは自分にとって不利な状況であればあるほど不安を払拭するために怒りを覚える。
自己防衛本能である。蛇足だが忍術に言う五車の術のうち怒車の術がこれに当たる。相手の弱点を攻め、わざと相手を怒らせて冷静さを失わせて本音を吐露させる交渉術の1種である。

オハラに戻ろう。
自分達の住む大阪では恐らくリサイクルの思想さえないであろうことを考えたのか、そのことをあえて棚上げして横浜方式に悪口雑言言いたい放題である。
今の世の中は、優れたシステムやりっぱな行いを為している存在を馬鹿にする風潮にあるのは確かだが、廉恥心のある人間ならばそのような風潮を悲観こそすれ乗せられることはない。
だが、まんまとその風潮に乗り、それをそのまま吐露するオハラのような存在を起用している当番組担当者は番組意図を理解しているとは到底思えない。
つまりは世間的におためごかしで作成している番組であるという印象を与えるのだ。
せっかく番組自体は現代に警鐘を鳴らす意味で大切な問題提起をなし、高橋秀樹というきちんとした大人を配しているにもかかわらず、オハラの起用が全てを台無しにしているのだ。
その1点だけで番組担当者の本音が垣間見える。
つまり、エコや社会派を気取っても、結局はスポンサーから金が引き出しやすいからお題目として唱えているだけで、本当はそんなものに興味なんか無いという本音である。

オハラや小森純のような存在を見ていると、新約聖書に言うビーストやギデオンという言葉を思い出す。
ギデオン、数多きもの…なるほどああいったいわゆる正当なな教育(しつけ)を受けていない、人間以前の存在というものは、「人間」になれなかったものたちであり、実際そのようなものたちが思いのほか増えているという点でギデオンでありビーストであると感じる。
ここでいう「人間」とは「人の間=人間(じんかん)」に生きることを受け入れているものたち、つまり社会という組織を構成・維持する上でのルール=他人をおもんばかることの出来る を遵守するものたちという意味での「人間」である。
百姓(ひゃくせい)とはその名の通り、「百=多く」の「姓」を持つものたち、つまりは民=大衆という意味であるが、大衆がみなオハラのようなモノたちになるのであれば世の中お先真っ暗闇だ。
だが、いまやその危機は目前に迫っている。
今のTVを見ているとそのことがよく判る。

2010年2月25日木曜日

東京都民はかわいそうだなぁ

東京オリンピック招致委員会は、今回大きな赤字負債を作り出したにも拘らず、今後も解散せずに活動を続けるそうだ。
今回の赤字の主因はご多分に漏れず大手広告代理店(電通あたり)による過出費なのだが、今後の活動資金はその広告代理店からの借金によるという。
つまりは大手広告会社がプロミスやアコムなどと同様の金融業務を行って、都から毎年莫大な利子という、旨い飴玉をしゃぶらせてもらうという構図なのだろう。
もちろんそれにぶらさがっている賊議員の存在も忘れてはならない。
有名無実のオリンピック招致委員会なるものをわざわざ存続させるからには、相当な圧力があるのだろう。これが一般企業であれば、そんな大赤字を出しながら事業=招致に失敗した部署など、即解散、担当役員は降格処分または解雇というのが当たり前である。
なのに存続の上、今後もぬくぬくとサラリー(税金)を貰いながら、なおも借金を増やすために消費者金融(大手代理店)から借金を重ね、その利子は税金でという仕組みらしい。
昨今の不況で広告料による収益が見込めない今、こうした新手の吸血方法を生み出した広告代理店の手腕は流石といわざるを得ない。
代理店は実質なにもしないで右から左へ受け流すだけで旨い汁が吸い放題というわけだw
スポンサー(出資者)⇒代理店⇒クリエイター(労働者) この流れでいくらでも飴玉しゃぶり放題だw
まあこの場合のスポンサーというのが東京都、その原資は都民の税金、つまりは東京都民がうまいこと生き血を吸われ続けているという構図なのだろう。
つくづく東京都民はかわいそうである。

2010年2月23日火曜日

「全面禁煙を求める」と長妻大臣発言

不況だデフレだと言うわりに、酔っ払いにもキビシク、外で煙草も吸うな!なんて言ってたら、誰も外で遊ぼうとは考えないだろう。家に篭ってじっとしてるのが一番ということになる。
篭っていればお金も使わないで済むし経済である。今のご時世にはぴったりだw
今回の発言に、個人業主はこぞって「大手による独占を助長させる個人経営潰しだ」といきまいているが、そんなことは今にはじまったことじゃない。
昨今の時流はあきらかに戦前の財閥復活を目論んでのことだから、個人でいくら騒いでもなんにもならない。農業の大規模・工場化や製造業等の資金による一元化など枚挙にいとまはないだろう。

だいたい本気で国民の健康を考えての全面禁煙なら、そもそもタバコの製造・販売そのものをやめてしまえばいいのだ。売るだけ売っといて吸うなというのは、いかにもおかしい。
つまりは吸ってもいいけど選挙の手前これくらいはぶちあげておこうということなのだろうか?

もし本当に路上でも建物内でも喫煙不可ならば、もう喫煙可能な場所は我々庶民の生活圏には存在しないということになる。それこそ広大な敷地を持つ権力者の私有地内や公海上といった日本を離れた場所だけになってしまうだろう。
自宅でだけ吸えばいい、と思っているのなら、それこそヒッキーになれということだ。これは憲法違反である。隔離され外出を禁じられた身のどこに基本的人権・文化的生活が保障されるというのか。
尤もこのままだと自宅喫煙についても外へタバコのにおいがもれ出ただけで訴訟騒ぎになりそうだw
想像すると、かつてのアメリカの禁酒法時代のようにスピークイージーのような地下喫煙所が出来たり、個人輸入によるタバコの密輸喫煙などが出てきたりすると、ちょっと楽しい。
また、どうせ禁止薬物なのなら、この際麻薬でも…という輩も出てくるのは間違いない。

どうも今回の件は選挙目当てにしても行きすぎだろう。
これ以上我々大衆に閉塞感を与えて、この先何がやりたいのか?大衆に働く意欲を与えて国力を上げるためには、大きな娯楽や拝金主義などよりも、喫煙などのようなささやかな自由が必要ではないのだろうか?そしてそれを寛容できる公共性もまた必要ではないのか?人はパンのみにて生くるに非ず、の思想である。

2010年2月17日水曜日

口にものを入れたまましゃべるな!

最近のTVを見ていて、非常に見苦しい、思わず目をそむけてしまう瞬間がある。
それはリアルタイム番組では必ずある、余禄で食事をしている場面でのことなのだが、幇間やお笑い芸人ならまだしも、文化人気取りのコメンテーターや局アナまでが、食べてすぐ、まだ口の中に食べ物が入っている段階で口を開いて、口中のグロテスクな内容物を視聴者に見せてしまう瞬間である。
どんなにおしゃれをしていようと、どれだけ美人であろうと、百年の恋もいっぺんにさめてしまう瞬間である。
芸人ならばそのような下品さも下劣さも逆手に取り、皆に馬鹿にされ笑われることを、あえて提示することで銭を得る生業と為している社会的に下等な存在であるのだから、我慢は出来ないまでもまだしも納得は出来る。
それを女子アナまでが平気で行うのだ。
実に耐えられない。
思わず口中のゲロを見せ付けられているようで、こちらまで吐き気がする。
自分達が子供の頃は、口中にものを入れたままでけっしてしゃべってはならないと教育を受けたものである。ここでいう教育とは学校などでの知識教授のことではない。教育とは元来家庭で行われるものだからである。
さすがにそのような教育がきちんと出来ている年配の方や女優などは、口中のものを飲み下してから口を開いて感想を述べるが、中途半端なタレントやコメンテーターなど、躾けが不自由な人々は平気で口中のものを画面に映し出して見せる。これはもちろん現場のディレクターにも問題はあろうが、なによりこのような下品な画面を見せられて抗議をしない我々国民にも大いに問題はあるだろう。だが、そのような国民を生み出し続けているのが現在のTV番組であることをこそ、各局のTVマンたち(NHKを除く=さすがにNHKの職員はそのような下劣な行為は未だタブーとされているようで安心だ)は自覚しなければならない。目先の欲に駆られて民度を下げているという自覚をだ。
「鶏と卵どちらが先か」ではないが、TVの与える影響力というものを、もっと真剣に考えて欲しい。いかに家庭教育がきちんとしていようと、TVで与えられる情報に子供たち(精神的な存在も含む)は簡単に感化されてしまうのだ。ローリングストーンという言葉がある。イージーゴーイングという言葉もある。人は誰しも楽な方へ流れていくものである。それをくい止めるモノ、くい止める努力を為すことが文化であり、人が精神的にも高次の動物であることを証明する唯一の手段でもあるのだ。
それを放棄することは人間であることを止め、獣に戻ることを意味する。

2010年2月10日水曜日

「心にのこる日本の歌」

似非(エセ)が増えたな~

と単純に思う。学者にしろ弁護士にしろ最近のバラエティに出ている人間たちは、本当に肩書き通りの人間なのか非常に疑問に思えてしまう。ニュースにしてもそうだ。およそ文化人(死語)とは思えない自称ジャーナリスト、自称アナリストといったコメンテーターが多すぎる。
彼らには、まず肩書きに見合ったイーソス=品格というものが感じられない。代表者として山崎方正と顔も性格も同じようなくだらなさの弁護士とか…底が浅すぎてカメラに写っている時と写っていない時のギャップが激しい状態が容易に想像出来てしまう品性下劣な人物が多すぎる。
特に心理カウンセラーを名乗る輩など、資格不要の職業なので誰でも名乗ることができるから、自称詐称の有象無象ばかりに見えて仕方がない。今TVに出ている人間で信用できるのは、クオリア研究などで一部に有名な脳科学者の茂木さんくらいであろう。
考えて見れば品性があればTVなどは出演を見合わせる感覚を持っているはずだから、まあ、元からコメンテーターなどを引き受ける人間など信用する必要はないのかも知れない。
それにつけても今のTVは、開き直って「俺(私)は下品だよw」と己の下劣さを自慢するような人間を、ことさら強調し、巷間に下劣な人間達を増やす努力を続けているように見えて仕方がない。下品さのインフレーションとでも言えばいいのだろうか。もっと下品にさらに下品にという一種のダウンスパイラルに陥っているようだ。特に小森純なるモデル?の存在はその焦眉であろう。
そんな番組や芸人・コメンテーターたちを見て育った子供たちに、我々は老後の面倒を見て貰わねばならないのかと思うと、もはや不安などでなく、絶望に近い諦めしか持てない。
きっとそんな子供たちは「時計仕掛けのオレンジ」のように。

別の例としては元全学連活動家(かつてガチャ目だったのは機動隊員の暴行による障害)のアジテーターリーダー・テリー伊藤などのようにアナーキズムを標榜する輩は、世の中を混沌となすために、わざと文化の質や権威を落とさしめ、さらに過激にさらに下品な世の中にするべく工作を行っている場合もあるが、これはテリー氏の思想の元に行われている運動なので、共感は出来ないが一定の理解は出来る。昨今転向した気配も見受けられるようだが、氏の本質は死んでも変わることはないだろう。

そういえば昔、心に残る日本の歌という番組を見ていて、漠然と「今は似非ばっかりだな…」と思ったことを思い出した。

80年代という特殊な時代はバブルやイデオロギー主義の消滅など、構造的に何かが大きく変化した時代であった。そのことが「本物」を追い出し「似非」の隆盛を招いた一因であることは間違いないだろう。「悪貨は良貨を駆逐する」けだし真理であろう。
キャンディーズらピンでは下手すぎてボロが出るのでグループで…という連中が出てきた時に感じた危機感が、現実になったのが80年代と言い換えてもよいかもしれない。
70年代フォーク世代の挫折と自暴自棄とも思える、投げやりな金・権力への擦寄りが生みだした様式が確立した80年代という時代…その萌芽は70年代に出てきた天地真理・浅田美代子や、田原俊彦らジャニーズの登場に象徴を見ることができよう。
いわゆる本物よりも華美な似非を好む文化の台頭である。

昔、聖徳太子の存在を否定した津田左右吉という歴史学者がいた。彼の説を大雑把に要約すれば、歴史上厩戸王子と呼ばれた人間は、居たのかも知れないが、十八条憲法制定などの偉業を成した、国民誰もが知っている聖徳太子というような人物は存在しない。彼は当時の権力者たちによって造られた、架空の人物像であるということになるだろうか。国家で成した業績を、まとめて1人の人物に集約することで、聖徳太子というヒーローを作り出す必要があった人々による、想像上の人物像であろうという説である。考え方としては、現代社会でも事業の成功や大学の研究成果などが、1人のリーダー・学者の功績のように扱われていることを卑近な例として挙げられるかもしれない。

だが、そのような通俗な価値観で計ること自体が問題ではないのか?
大事なのは「聖徳太子」を生み出した精神なのである。
聖徳太子のような存在は、ひとつの理念なのである。道標といいかえてもいい。コロンブスの卵の例を持ち出すまでもなく、それなくしては成り得なかった、目には見えず形も残らない、だが確実に将来へ影響を残すであろう「思考=考え方」そのものが重要なのである。
ゆえに津田氏の説に触れた時、私には理解も容認も出来なかった。もちろん津田氏の生きた時代性ということもあろう。当時軍部が富国強兵を進める上で、聖徳太子や二宮金次郎などを広告塔に使用したことに対するアンチテーゼという背景もあったのだろう。だが、それでもなお聖徳太子を否定したことは、偉人伝にケチを付けて地位を引き摺り下ろそうとする、氏のルサンチマンの発露に思えて仕方がないのだ。
もちろん、氏の功績は記紀の研究方法の手法や検証方法が、現代の歴史学の検証方法などに受け継がれていることを見てもわかる通り、りっぱであったのだろう。だが私は津田氏の書物もウルトラマンが科学的に実在出来ないとする冗談科学論も、「猪口才」という点で同じもののように思えて仕方がないのである。

偉人伝は必要である。
勝海舟も回顧録の中で、思春期・青年期に異性が気になり我慢出来難い時には、スポーツで健康的な汗をかき、偉人伝を読むことで青雲の志を奮い起こした、というエピソードを語っている。
人間が健全な社会という契約世界を維持し続けられるかどうかの鍵を、見事に物語っている名エピソードである。品格というものはまさにこのような精神から生まれて来るものであるのだろう。
偉人の業績を素直に受け止めるられるか否かは、「本物」を認められるかどうか、その人間の精神の在り様に依存しているからだ。
「本物」を認めるには肉体とともに精神が健全であり心が強健であるという条件を満たさねばならない。そうでなければ、己の中のルサンチマンを抑えることが出来ないからだ。そういった修養が出来てない惰弱な精神では、「本物」の持つ迫力に耐えられないのだ。ちょうど訓練を積まずにいきなりプロスポーツが不可能であることと同じだ。肉体同様、心も鍛えぬかなければ本物の持つ重みを受け止め支えることは出来ない。へたに手を出せば、その心はポッキリ折れてしまうだろう。だから昔から「本物(の運動の場)」には近づくな!近づくにはそれなりの準備が必要である!という教えなり教育なりが行われていたのだ。
「健全な精神よ、健全な肉体に宿れかし」
それをなおざりにし、自由と我儘を同義語と勘違いした世代の台頭によって、やがて日本の文化は崩壊してゆくのだが。その発端が80年代に垣間見えたのが「心にのこる日本の歌」という番組によってであったのだ。
番組に登場する本物の歌手たちの朗々と歌い上げる姿を見るにつけて、「正しい精神の鍛え方」という伝承が断絶した=終わったのが、まさに80年代であったのだなあ、と考えた次第である。

2010年2月7日日曜日

「マスコミ」と「事実」は違う

至極名言である。
本日もさまざまな番組でいろいろなことをMCやコメンテーターが我儘に(自由にではない)発言しているが、聞けば聞くほど見苦しい。
その中で一服の清涼剤となった発言が「マスコミ(という存在のなかで発信される文言)と事実(である出来事)は違うものである」という定理である。
これは正しい。どの番組も番組である以上、必要以上に恣意的である。それはCMに代表されるようなイメージ戦略を使用しての、世論の情報操作であったり大衆誘導であったりさまざまだが、ゆえに語られていないことのなかにこそ真実はある。
TVで発信されるような物事には、なんの真実もない、酒場での与太話に等しい。その程度のことであるということだ。
TVにジャーナリズムが存在するという幻想は、過去にはあっても現在にはない。
特に坂本弁護士一家殺人のための個人情報をオウムにリークしたTBSや、さんご礁を自ら破壊し、ダイバーのモラルの低下を訴えた朝日などは信用ならないTV局の大代表だろう。
しかし民間企業である以上それは当たり前のことである。権力におもねり、スポンサー(金力)に尻尾を振らないでTV局の生存はないからだ。
別の見方をすればスポンサーという企業の在り様が社会を形成し、代表的世論にも為り得ることを考えれば、少なくともスポンサーの方を向いているうちは、畢竟我々大衆の方を向いているということになるともいえる。

許せないのはNHKであろう。国民から視聴料という名の税金を毟り取り乍、なにゆえに中立を保てないのか。一部宗教団体・圧力団体におびえてでもいるのか?と思いたくなる報道も散見される。しかも最近はCMの量が増えすぎてとても見づらい。ここでいうCMとは自社制作番組の宣伝CMのことである。酷いときは5分以上もCMを連続で流し続けていたりする。いい加減にしろ!といいたい。NHKは唯一の美点は、くだらない商業CMを見なくて済む、という1点のみにつきるからだ。なのに自社制作番組CMをダラダラと垂れ流しされたのではなんの意味もない。金返せ!といいたくなる。

所詮お茶の間のにぎやかしでしかないTVという存在そのものをニュースソースとするような人間は、程度が知れているということなのか。己の目で見、己の耳で聞いて判断する訓練を積め!TV報道の裏側を類推し、クオリアのようなものを会得する訓練を積め!ということなのかもしれない。

ところでふと素朴に思ったのだが、今の自民党総裁や議員らがTVカメラに向かって愚痴っていることは、いったい誰に向けて発信しているのだろう?どう聞いてみても自民党内部の過去の汚点を自分の口から論っているようにしか聞こえないのだがw
考えて見れば鈴木ムネオも田中真紀子も小沢幹事長も、皆自民党のど真ん中に居た人たちではあるww

2010年2月4日木曜日

心が和む喜八映画 ♪

TVがつまらなすぎてしょうがないので、岡本喜八の映画を連続で見ている。
やっぱり喜八はいいなぁ~。心が洗われるようだw
スカパー様々というところだ。
今回は未見だった映画が何本も見られて実によい^^v
もともと岸田森が大好きで、その昔出演作を探しては見た中にあった「ダイナマイトどんどん」以降、すっかり喜八に嵌ってしまったのだ。
世の中の不条理に心が折れそうになったときは、喜八に限る。なによりの特効薬だw
まさにエンターテインメントというものの存在がここにある。
「地獄の饗宴」や「顔役暁に死す」などを見ていると、松田優作の角川映画は喜八のオマージュであったことがよくわかる。洒落が効いている分、喜八の方が上等であるw
さあ、また見ようww

2010年2月2日火曜日

ポストモダン?ww

政権交代・日航倒産・百貨店退却・Ipad・アバター・貴乃花理事選勝利…
慌てうろたえた口ぶりでいろいろな出来事をTVニュースでは伝えているが、これは文化の世代交代が完全に成し遂げられようとしている現れではないだろうか?
それもただの世代交代ではない。
精神の大きな変革がまさに2010年の今起こりつつあるのではなかろうか?
昭和はバブル崩壊とともに終わったと思っていたが、完全なる終焉が今なのかも知れない。
それは権力構造にも集金システムにも大きな変革をもたらすだろう。
もう、みの〇んたの時代ではないのだ。
日和見主義で「権力におもねろ!」と叫んでいる、みの世代の時代ではなくなったのだ。
この現象は喜ぶべきことだと思う。そして悲観もしなくていい。人に必要なものはいつの時代にも必ず残されてきた。
そう、どんな時代でもエポックは残る。良し悪しではない。それが古典というものになるのだから。
ならばこれからもエポックを創造できるよう修練すればよいだけのことだ。
硬直したモダニズムはちょうど衣替えの時期に来ているのだ。
衣替えの時期に変えられなかったものは笑いものになるだけである。
メディアもそうなのであろう。いま、まさに新聞・TVというメディアが生き残れるかどうか勝負の時が来ていると思う。